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失くしたイヤホンのゴムが自室の床に落ちているのを一昨日くらいに発見しました。探したはずの場所に失くしたものがあった、というのはよくある話で、こういった説明のつけにくい(≠つきにくい)事柄を、スピリチュアル的に解釈するのか、認知科学的に解釈するのかといった問題がありますが、このような小さな解釈を放棄することの果てに偶然性に人生を任せる余裕が生まれるのだと思います。先週くらいまで約1ヶ月間、星座占いのサイトを毎日見るということをしてみたのですが、呪術という偶然性のスピリチュアル的希釈としてのアドバイスを得るために、占われる前からどの占い師やサイトを信じるかという選択肢が大量に与えられている時点で、占われる者はある程度の偶然性を放棄しなければならないという、極めて現代的なパラドックスを抱えていることがわかりました。
それにしても、こういった場合「失くしたと思っていた〜〜が見つかった」と書いてもよいのだけど、身元がわからなかった時間は確かに失くしていたのだし、今手元にあるこのゴムは「一度は失くしたゴム」であって、結果的にそれが見つかろうと見つからなかろうとその事実は変わらないのでおれとしては「失くしたゴム」と書くのが自然だ。そしてそう認識することでこのゴムは次失くした際には「2度失くしたゴム」になれるし、その次は「3度失くしたゴム」だ。おれは経験の話がしたいのだと思う。

 

明日から少し忙しく働かなければ作業が完了しなさそうだ。大学時代の友達に、自分のペースで仕事をしてよくちゃんと仕上げられるねと言われて、130%で完成度を想定して着手するとどんなに滞っても結果的に90%くらいのものが出来上がると答えた。これを100%に近づけるのが当分の課題だろうと思います。