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最近、アルピタンというアルコール頭痛の薬を飲むようになって、酒を飲んだあとのしんどさがほとんど無くなりました。おれはもともと酒を飲める体質ではないのだけど酔っ払うのも酒も酒のつまみも好きなので無理して飲んでいたところがあります。けどこの頃、酒の弱さが加速していて、ハイボールと赤ワインを1杯ずつ飲んだだけで猛烈に頭が痛くなった日をきっかけにちゃんと対策しようと思い、先の薬にたどり着きました。これが俺にはかなり効果があって、もしかしたらこの発見は自分史に刻まれるべき一大事かも知れないと思っているほどです。何なら今この文章を打っている、やっと手に入れたmacbook proよりも良い買い物(薬は継続的に買うものなので比較するのはちょっと気持ち悪いですが)と言っても差し支えないです。

自分は焼酎や日本酒と相性が悪いという気がしていて、なんとなく敬遠していたのですが、それも最近は遠慮なく飲めるようになったのも嬉しいです。今までは日本的料理に対してもウィスキーやワインといったヨーロッパ原産の酒を飲んでいたのですが、そういうものには焼酎や日本酒の方が絶対的に合う。ざっくりと分けて、ヨーロッパの酒が料理の風味と絡み合い、積分的に味を構築していくのに対し、日本の酒は味をリセットし、微分的に整理していくようにできています。これはそのまま西洋世界の一神教的秩序と日本的な多神教的、多層的秩序が宴席の次元に降りてきている形となっていて、すなわちキリスト以前or以降何年という1次元的時系列の中でストーリーを構築していくヨーロッパの酒と、天皇が即位するたびに暦を塗り替えるリセット型の日本の酒では全く異なる世界観を持っています。だからこれらは分けるべきと言ってしまうと、アルコール右派として政治的右派と同様、肩身の狭い思いをすることになるのですが、やはり政治的左派がそうであるようにアルコール左派はグローバリゼーションを現実の身体を抜きにして考えるべきではないのです。

半年以上かけて作った音楽は、人からの評判はともかく自分としては6.5割くらい満足しています。反応こそほとんどないけれど客観的に判断していい音楽だし、自信を持って人に聴かせられます。6.5割が一般的な作り手にとって高いのか低いのかわかりませんが、自分の中ではかなり高いです。実は仕事で作った映像とかで、人にはやたら褒められるけど自分としては納得がいってないというか、恥ずかしいものもあります。そこのギャップを肌感覚としてわかっているので、いくら再生回数が低くても表面的な精神のダメージ以上の何かを食らうということはないです。


ライブハウスとかクラブに行ってプレイすれば、広いネットを漂わせて偶然網にかかるのを待つよりかは人に聴かせるという意味では断然賢いと思います。そしてそれをやるかどうか、実際かなり迷いました。けど、そういうコミュニティに入っていって、近いカルチャーが好きな人同士の中でお互いの作品を評価しあうことに対して、ざっくりとした抵抗感があります。そういうコミュニティ自体に対しての嫌悪感はないのですが、自分がやりたいことから離れていくような気がしています。だからといって誰にも聴かれないのに馬鹿みたいに頑張って音楽を作り続けるほど真面目にもなれません。まだ始まったばかりなので、そんなことは後から考えればいいのですが。

もっぱら普段の読書は哲学や人文系の本ばかりなのですが、最近ふと量子力学に興味が湧き、講談社現代新書量子力学の哲学という本を読み始めました。少し前から電車で読む用の本として認知科学の入門書も読んでいたのだけど、やはり量子力学の方がより自然科学に近くて新鮮です。タイトルには哲学と入っているけど、これは量子力学における解釈の部分のことを言っていて、実験で確かめることができないところくらいの意味みたいです。この本は高校の物理のかなり序盤で挫折したおれでも面白く読めるすごい本なのですが、著者が科学哲学者なので量子力学の専門家というわけではなく、説明が正確さを欠いていたり、最新の潮流を追えていなかったりするらしいので、今日もう一冊手頃なものを買ってきました。量子力学の話には相対性理論の話も必ず出てくるのでそちらにも興味が湧き、100分de名著の相対性理論も買いました。

2週間くらい前にふと世界史の学び直しがしたいと思って、世界史の網羅的な参考書のようなものを買って、ちょこちょこ開いています。おれは世界史と地理の教養が終わってるので、そこがずっとコンプレックスだったのですが、それをこの歳になって解消しようという気になったのです。あと、中国の古典に疎いのが嫌で、最近アマプラで水滸伝のドラマを見ている。これは原作からの改編がかなりあるらしいのですが、梁山泊だとか林冲だとかの地名や人名が入ってくればいいなくらいの感じで消化しています。物語としては今のところ正直全然面白くなくて、真っ直ぐ勧善懲悪みたいなものなんですが、面白がろうと思って見てないのでべつに苦痛ではない。 


この最近の学びのマイブームは何なのだろうと考える。深く深く掘っていくことに対して自分でストップをかけているような感じがしています。基本的に、自分の変化というのは何かの核を見つけるたびに起こっていくんだと今までは思っていましたし、今もそう思っています。だからこそ狭い範囲を深く熱を持って追求しているのですが、その危険をどこかで感じているのでしょうか。このまま生きていっていいのか。



アインシュタインは26歳で特殊相対性理論を発表しました。浅田彰が構造と力を書いたのも26歳。おれは28歳になろうとしている。窓を開けると冷たい風が入って気持ちいい。構造上、熱の篭りやすいおれの部屋は、パソコンやおれ自身の放熱を溜め込んで入ってきたばかりの外気をなぁなぁにする。窓際の、今いるこの場所だけが、外とつながっている。


今日は突然寒くなってしまったのもあってめちゃくちゃやる気が起きず、仕事を少しだけやってその他のやるべきプロジェクトを開いたり閉じたりしていました。こんなこと大きな声では言えないけど、おれは全然ダメな大人、というか、おれみたいな態度で色々やっていたら社会は成り立たないというような部類の人間です。おれのことを、機嫌が安定してるとか大人だと言ってくれる友人が結構います。これにはからくりがあって、ちゃんとした大人をやっていないから余裕があるだけです。毎日通勤電車に乗って、働いて、休日は善き友人または恋人であり、同時に良き消費者として模範的な国民を全うしていれば精神の余裕はすぐに尽きるでしょう。おれは規範意識というものを幼少期から少年期にかけてガチガチに詰め込みすぎたせいで、ダムが決壊したタイプなんですが、大人になっても決壊のさせ方がわからずに自分を不安でいっぱいにしてる人が多くて可哀想というほかない。全員決壊させてしまったら先にも言ったように社会は終わってしまうのですが、自分より社会が大事とは到底思えないので決壊まではいかなくとももっと上手に放流すべきだとは思います。


作業のやる気が起きないので本を開いていたんですが、やっぱり作業をやらないとダメだよなぁ、と思いながらの読書はいやなので、いっそ映画を観て自分を拘束してしまおうと、虫プロ制作の千夜一夜物語をみました。我ながらとても良いチョイスでした。アニメの実験的な表現のうち、実写との合成だとかは初期のフライシャーがやっていたことの延長なのですが、手塚としかいいようがない漫画的演出の数々は、絵が動く、という原初的なアニメーションの快楽を一層濃くしていました。このアニメはかなりエロティシズムの色が濃いのですが、官能としての曲線は2月に見たフランソワポンポンの動物彫刻を思い出しました。


この映画は今書いたように実験的要素を抜きにしても傑作だけど、看板としては実験的映画だと思いますし、実験的部分ももちろん素晴らしいです。ただ、おれは表現としての前衛が好きなタイプだけど、一方で前衛が時代的なものであることは理解していて、ポストモダンの頭にもう一つポストがついて違和感がない今の時代に、表現形式としての前衛が今でも純粋に輝きを放っているとはさすがに思っていません。だからこの前衛への愛着というのは自分が生まれたくらいまたはその少し前の時代への憧憬みたいなものも含まれていて、(だからこそ昨今の安易なグリッチブームには飽き飽きしているのだけど)翻って今の時代に立脚した自分がなすべきこととは何なのかを常に考えている。いま制作中の音楽はその答えの一つなのだけど、あまり深く考えすぎても面白くなくなる、砕いていうとバイブスが下がりそうなので、ある種の情熱に任せて作っていくことも大事にしたい。だからこそ音楽は若いうちの方が上手く作れるし、音楽家には若い天才が沢山いる。


新しさは常に大事だけど、そこへの純粋な驚きが己の無知からくるものではないかを常に疑うべきだと思っています。それは単におれが模範的な市民ではないから、といわれればそうかもしれないですが、決壊したダムから流れたエネルギーがこういうある種のシリアスさに向かっている気がしていて、逆説的に、社会とはシリアスさを規範意識に変換して抑え込むシステムを孕んでいると言えそうです。この文章も社会のパースペクティブから見たら無意味この上ないのでしょうが、そういった世界にこそ無意味が必要であるとおれは確かに信じているし、それは単なる前衛以上の力を持った脱構築的因子だと思っています。

大して稼ぎもないくせに忙しい忙しいとほざいていた期間をやり過ごし、今は少し余裕を持って生活できています。合間にちょこちょこやっていた音楽制作に腰を据えて取り組むゆとりもできてすこし安心しています。今回は第三者も制作に関わっているので、できるだけ滞りたくない。

今月末には完成させたいなと何となく考えていて、それは誰のためでもないのだけど、無理矢理にこじつければ自分のためであって、28歳になる前にということなのだろうかと思う。作品を完成させることで自分の生活を少し動かしたことになるんじゃないかと期待している。

ここのところ毎日何かしらの締め切りに追われていました。睡眠リズムがめちゃくちゃになったので、ずっとぼーっとしながら仕事をしていました。今日ようやく一区切りついたので、たっぷり寝ようと布団に入るも眠れず、2時間ほど試行錯誤してそれをやめたところです。

でも、まだ本当に全ての手を尽くしたわけではないです。おれはゴダールの決別を眺めているとおれが眠ることができるのを知っているのですが、その必殺をまだ使っていないのです。もっと面白い動画を見たり、面白いことを考えながら眠りにつきたいという我儘が、早く寝るべきだという考えに勝ってしまっています。

けど今これを書いたことで、その馬鹿らしさを眺めることができた気がします。水を飲んで、横になって、ゴダールの決別を観ます。

今、重めの動画のエンコード中で、自分は一旦待ちになってしまいました。久しぶりにスマホでブログを開きました。

この仕事の効率はパソコンのスペックにかなり依存することになるし、何より今みたいにエンコード中に何もできないみたいなのが作業量的に厳しくなったので、決心して一昨日MacBook Proを注文しました。けど上海がロックダウンしてる影響とかで生産が止まっているらしく、出荷予定は5〜6週間後。SNSによると、2月から待っていてどんどん出荷予定が延期されてまだ手に入ってないような人もいて、これはまずいタイミングに買ってしまったと思い、メルカリで同じスペックのものを物色していました。どちらにせよ分割で買うんですが、Appleだと24ヶ月手数料0️⃣なのに対し、メルカリだと相場の金利がかかります。少し考えてみますが、メルカリで買うことになりそう。


さっきゴミを出しに外にでました。おれの家は住宅街の中にあるんですが、全ての家が道路との境界線をまっすぐつくって、向かいの家との各々のの境界線が完全に平行である様が最近やけに気になる。

少し前に、友達とまちを散歩していたときに話したことを書きます。というのも、その話はおれが共感してもらおうと思って話したのに、全く共感を得られなかった話で、ということはその感覚はとりあえずその時点ではそこにしかなかった、つまりおれがその感覚をどこかに残しておかないと、もしかしたらこの世から消えてしまう感覚であるかも知れないからです。話の内容はこんな感じです。

おれは知らないまちを歩くのが結構好きなんですが、日本の中、少なくとも関東だったらまちってほとんど同じような光景です。標識や信号が統一されてるのは勿論ですが、コンクリートの色は3種類くらいだし、雑居ビルのポストの形とか大体あれだし、大雑把に見ても細かく見てもある程度フォーマットが決まっています。それは文化圏といっても経済圏といってもよいのですが、とにかく知らない土地でも見たことあるというようなことは、デジャヴとかとは別に、あると思います。さらに通りすがる人の顔も、大体知らない人間の顔なんて8種類くらいにしか見えないので、なんだか見たことがある人が歩いているように見える。初めての土地なのに知ってる、という違和感がおれは結構好きで、さらにいうと、その土地に何回か訪れることによってその感覚が消えていくのも変で面白い。とにかくこの一連がキモくて好きなんです。

それで、この感覚って海外の人も思ったりするのかな?つまり、日本が異常にまちの雰囲気がフォーマット化されすぎているのであって、他の国だともっとまちは個性を持っていて、このキモい感覚がないのかな?と友達に聞いたら、まずその前提の時点であんまり感じたことないかもと言われてしまった。でもおれはその話をしたことで、その感覚がうつるような気がしていました。というかうつってほしかった。