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1ヶ月ブログを書いていなかった間、話そうと思えばそれなりの密度をもって話せるようなことがなかったわけではないのは一面での事実だけれど、それを記述したいかと聞かれれば別にそうでもなくて、またその曖昧さが容易にNoに転がっていくような、(生意気かつ大袈裟に書くならば、大変ありがたいことに)忙しさ!を感じていたので、その出来事や内心はどこにも記述されず、また結果的に誰にも話されることはなかったのだけど、今ブログが「書き始まった」ことが逆説的に何かひどく重要なことが身に起こったことの示唆であるとか、そういったことではないのです。ただこういう、不必要に言葉を塗りたくっていって作った、一見いろんな味がしそうで結局は甘ったるいだけになってしまった餅。そういう餅(言い回しとして全く不適当な気がするけど、最初に浮かんだのだから仕方がない)を作りたくなる瞬間が絶対的にあり、それが今だというだけで、あまつさえ人に食べさせたいとかそういう気はないと(一瞬)思われる。ただ、こうやってブログという形で人目に晒すために文字をタイプしている自分というのは、まずい餅を事故的に通りかかった人の口いっぱいに詰め込んでやりたいというサディスティックな欲求か、あるい真逆に、この不格好な餅を持ってスクランブル交差点で立っていたいというマゾヒスティックな願望のどちらか、もしくはどちらもが入り混じった感覚なしにはどう考えても分析しきれず、完全な無動機、もしくは神聖な何かによって突き動かされたとかいう(非/超科学的な)可能性と比較すれば、単純な回答として「餅を人に食べさせたいという気はない」というのが無自覚か勝算のない嘘である、というのが真実であると結論するのが自然かと思われます。

 

衣しかない唐揚げ(餅が唐揚げに変化したこともまた全く何の示唆でもない)ばかり食べていると流石に胃もたれてしまうので何か早急に話題を拵えるならば、松本人志の映画作品を今更4つすべて見たことについて書いてみます。おれは映画が好きだし、仮にもお笑いの分野で飯を食っているので本当に今更、なのですが、もはや単語それ自身が半固有名詞化してしまった「提言」の中で当然のようにつまらないものとして前提されている松本映画というのが本当にまごうことなき駄作なのかというのを確かめてみたくなり、短い期間のうちに4本をどさっとみました(この動機から見るまでのラグ含め「今更」)。結果から言うと、さや侍を除きそんなに悪くないと思ったし、大日本人はまた観るだろうという気もします。当のAっちゃんが本当につまらないと思ったのか、それともオートマティックに下すMっちゃんフィルム批判をマニュアルとして搭載しているだけなのかは定かではないですが、仮にも「大学」を主催する人が映画という1芸術メディアをエンタメ的におもしろいかどうか、笑えるとか泣けるとかの生理的反応だけで判断しているはずはないので、もっと広い意味でのおもしろさにおいてもその価値を棄却しているとみて間違いはないかと思います。ただ「提言」に立ち返ってみると、「芸人はなぜ松本映画がつまらないと言わないのか」というテーゼではあった(記憶がある)ので、彼自身の意見は実は表明されていないと考えるのが適当かもしれません。あえて確認する気もないので、この辺は曖昧にしておきます。

 

さすがに、2023年に松本映画の感想や批評を個人のブログで展開する気などないですし、大日本人としんぼるに関しては菊地成孔によるしっかり味のついた批評が刊行されているので、それが読まれるべきと思います(もちろんスタンダードな味付けではないので、塩や醤油を求めるならば宇多丸のウィークエンドシャッフルを聴けばよいです)。し、おれの映画の感想といえば、誰かが誰かの顔に見えたとかそんなことしか書いてこなかったので、端的に、急拵えの話題ももはやここまでかという様相を呈し始めました。が、あえてこの死に体でどこかに小指を引っ掛けるならば、松本映画にカラックスを見たということをかいておきます。

 

(この行間に幾分かのラグがあります。)

 

今、翌日の早起き(といっても10時とか。一般の社会人にとってはもう朝というより昼前と言った方が相応しい時間ですが、我々にとっては朝ど真ん中です)のためにウィスキーを二杯、うまいウィスキーと安いウィスキーをそれぞれダブルで飲んで、ちょうど目の前のディスプレイが眩しいと感じるくらいの酔いのまわりなので、それに任せて書いてみていますが、松本映画を見ながらおれはカラックスを感じていました。男性のしんぼるを幾度となく指で弾き、聖書をなぞっているようでなぞっていないであろう「しんぼる」よりむしろ、より日本的でコント的な大日本人の方が、カラックス感が強く、いやというよりカラックスが松本的なのかもしれない。おれはお笑いライブのPR映像にメルドを引用したことがあって、それは個人的趣向ももちろんあるけど、それがお笑いに親和性があると思ったからだ。そしてやっぱりカラックスはそういう類のおもしろさだったんだとそこで気付かされたというか、やっぱりTOKYO的感覚を持ってるんだと思う(ダウンタウンは関西だけど今日における東京的笑いとは松本人志である)。だってメルドって意味わからないのに笑えるし、前提として怖い。それって松本人志だ。

 

ちょっと何がかきたかっったのかわからなくなってきたところで、この文章は煙に巻くのが良いと思われるが、最近グラップラー刃牙を全巻読んだので、その感想も書いておきたいのだが、ちょっとそれはまた今度にとっておきます。今いえることといえば、youtube刃牙の公式チャンネルがすごいので、これは一つの漫画の映像化の模範解答の一つと思いますので、見られるべきでしょう。寝ます。

母が病院から実家に戻った。これからもしばらくは週に2度ほどの通院が必要とのことだけど、幸福そうにしている、はず。正直かなり不安になる瞬間もあったけど、本人が前向きでいるなら家族はそれ以上に前向きにならなければいけない。病気とはそういうものなのだと知った。

 

今、ツタヤディスカスを使ってレンタルした北野映画が2本うちにある。ビートたけしは誰かに似ているなと思っていたんだけど、去年死んだ母方の祖父に似ているんだと気づいた。この間友達に、おれが北方遊牧民系の顔をしていると言われたのだけど、おれのそういう顔のつくりはおそらく母方の祖父から受け継いだもので、細目だったり輪郭だったりは遺伝を感じざるを得ない。その友達が言うにはそういう顔立ちは格闘家とか不良に多いイメージがあるらしいのだけど、たしかにたけしはチンピラがよく似合うし、トラックドライバーだった祖父は実際よく喧嘩して、ある時などは鍵をメリケンサックみたいにして相手を血だらけにするから、幼かった母が泣きながら止めたこともあったという話もある。その絵面自体がたけし映画そのものなんだけど。

 

父方の方の祖父は佐渡島で一番立派な寺の生まれだったのだけど、坊主になりたくなくて東京へきて、それから早稲田を出た人だ。二世帯住宅に住んでいたおれはよく祖父に教育された。正確には祖父からの直接の教育というものはなかったと思うけど、家を支配していた空気というものは確実にあった。母は明るい人だけど、その明るさを支えるある種の鈍感さや大雑把な振る舞いが、祖父に細かく怒られていたということは、おれが大人になるにつれなんとなくわかっていったことだ。おれは夏休みに母親の田舎に行くと、太い腕を健康的に焦がした祖父と自分が似ているところが全然ないような気がしていたのだが、それは一緒に暮らしていた方の祖父の教育の賜物だったのだろう。

 

なんだか一方の祖父を悪いように書いているみたいになってしまったけど、両方の祖父から等しく愛情を受けていたと思うし、どちらのおじいちゃんも好きだった。可能性として、おれが母方の祖父と暮らしていたらどんな人間になっていたのかを想像するのはおもしろい。おもしろいけど、それは父方の祖父を傷つけるだろうからやめておくし、ただおもしろいだけでしかない。実際におれが兄妹と父と、祖母と、母と祖父と暮らしていたということは事実であって、事実というのはそれだけで想像よりも遥かに重い。

新しい仕事をもらうようになって、なんだか毎日目まぐるしいのだけど、大学を出てから一度も会社に属さずに自分のペースで働いて、ときに人に金を借りたりしていたのだから今くらいは頑張らないとと思ってうまくやるようにしている。30歳になったらもっと自分のやりたいことに時間を使って、それで金を稼ぐことを考えなきゃいけない。そのための勉強にやっぱり金がいるから、今は頑張るしかない。なんだか数ヶ月前と全く違う人間になったみたいだけど、その時も今も何を大事にしているかは変わっていなくて、ただ使いたい言葉は変わったのかも知れない。

 

少し前に本を大人買いして、リビングに積んであるのだけど読む時間はない。箱買いしたウィルキンソンの辛口ジンジャーエールは1日1〜2本飲んでいて、糖尿を恐れている。睡眠時間が減っているのに比例して食が細くなっているみたいだけど、食い過ぎるよりはいいか。この間29歳になって、30歳になったあとのことを考えることが結構あって、真っ黒の正方形のタトゥーを全身に入れる計画はそれくらいを目処に始めようかなと思っている。それで髪型も変えようかなと思うけど、今より好きになれる髪型があるのかどうかわからない。

 

久しぶりにライブの映像を作る。イベントのための仕事は自分の長期的なリズムになる。まずは音楽から。

今日、漱石の坑夫を読み始めたら、最初の3ページ目くらいの記述で、道端の怪しい男がこっちをジロジロ上から下まで見てきたというただそれだけのことの描写に何行もかけていて、しかもその文章の主体はほとんど目線のダイナミズムだけというとてつもないものだったのだけど、やっぱり漱石のこういう映画的な記述がおれは好きだし、文章が情報と等価になろうとしていく流れの中で、こういう文章に愛着を持ってしまうというのはある種必然なのかなとも思う。おれは文章に対してとことん信頼感はもっていないのだけど、別に難しい顔をしてデリダとかロゴスとかいうまでもなく、誠実さでもって果たされる仕事が文章にはあるという話だと思う。おれは表現としての文章の作り手ではないけど、明らかに映像や音楽における誠実さと、文章におけるそれでは違う色を持っている。

 

しかしバロウズが誠実ではないのかと聞かれたら難しいところだ。確かに誠実ではないかもしれないが、そう考えるとビートニクは文学じゃなくてアートだ、という貧相すぎる解決になってしまう。文学とアートを分けることこそナンセンスだ、というのも貧相だ。

昨日は母の見舞いに行った後、久々に下高井戸に行った。

病気の性質的に生花はよくないので、プリザーブドフラワーを買おうと思いあちこち歩いたがどこにも売っておらず、当日思い立って買えるようなものでもないかと思う。あんまり待たせるのも悪いから手ぶらで行った。おれは親の年齢がよくわかってなかったのだけど、還暦が再来年だと言うのでおれと母とはちょうど30歳差らしい。誕生日は4日しか違わない。兄貴のところの甥姪のことと、妹の一人暮らしについてと、今後の治療についての話をした。30分の面会時間で気づいたら45分経っていた。

 

下高井戸シネマは大学生の頃、映画が好きになったくらいの時によく行っていた。あとは飯田橋ギンレイホール。なぜだか早稲田松竹には行っていなかった。

 

19:50からの短編アニメーションの上映の前に、イオセリアーニの田園詩という映画の上映があったので、喫茶店でくつろぐのを早めに切り上げて劇場に行った。1700円×2。誰が見るんだよっていう映画を見たり、適当な喫茶店に入ってコーヒーを飲むようなことが最近できていなかった。焼きカステラは温かいうちはうまいが、冷めてからは普通のカステラに劣る。

 

今日、作業をしながらケンドリックラマーの去年出たアルバムを久々に聴いていたら、最初の曲のアウトロのピアノでなぜか、大学生の時に友達が運転する車から見た風景とか、地元の駅から実家に帰る道中の小さい公園とかを思い出していた。

 

 

 

ずっと見ようと思っていた「いつだってやめられる」シリーズをこの3日くらいで全部観た。くだらなくて面白いんだけど、なぜか全編グレーディングがめちゃくちゃで、黄色がやけに強い。あと2作目のドラッグをやっている最中に意識がアニメ化する演出がやけに浮いていて、そういうのを全部含めた半端なアングラ感が愛おしかった。こんな作品でも3作観終えてしまうと少し寂しい気持ちになるので、寂しさとは安い感情なんだなと思う。