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29歳にしてファーストタトゥーを入れました。タトゥーは以前から入れたいと思っていて、真っ黒の大小の正方形を全身にたくさん入れるつもりで考えていたんですが、時間が経つにつれて自分の発想以外からのアートを体に刻むことが重要に思えてきて、つまり自分のコントロールから自分の身体を離していくことがタトゥーのおもしろさの一つなのだろうと思えてきて、デザインから人にお任せして入れてもらうことにしました。そしてその考えになってから、自然とそれが正解だったんだと確信するようになり、アーティスト(この人に入れて欲しいと感じた天才的なアーティストにこのタイミングで出会えたというのも確信に加担している)に連絡を取ってとんとん拍子で体にインクが入りました。最終的には色んな個性を持ったアーティストに隈なくインクを入れてもらって、体をコラージュアートのキャンバスにしていけたらと思ってますが、もしかしたらこれも変わるかもしれません。よく、「考えが変わるかもしれないのに(現に、今書いたようにおれも考えがころころ変わるタイプです)永久に体に残る模様を彫るなんて」という声を聞きますが、だからこそ俺はタトゥーを入れたのかなとも思います。ドレッドも一回始めたら簡単には変えらえない髪型だし、ノリで友達と一軒家を契約したりしてしまう。でもむしろおれは可能性が無限にあるということが怖くて、自分で制限をかけていくような生き方が好きなんだと思います。考え方は変わるかもしれないけど、その時そう考えていたことは変わらないし、それを悔いて過去の自分を恨むほど未来の自分の器は小さくはないだろうという信頼感を持っている。これはナルシシズムの問題とは少し違くて(まぁ他人から見たらおれはナルシシストかもしれないけど、ナルシシストは生まれたままの自分の体を愛せる人だと思う)、原理的に人間は生きる上で過去の自分に対しての清算という不断の経済的コミュニケーションを不可欠とする以上、今の自分がどういう人間なのかを未来に対して提示し続ける責任があるという極めてドライな話で、それは間接的に周り(大なり小なりの意味での社会)に対する倫理的責任にもなる(というか宗教という絶対的な倫理的指針を持たないおれたちはそういうことでしかそれを果たせない)。

 

これはなぜタトゥーを入れられるのか、という理由であって、きっと友達が知りたいのはなぜ入れたかという理由だと思うし、俺も覚えているうちにここにそれを書いておこうと思います。一番大きいのは自分の体が嫌いだからということ。おれは体がかなり細くてそれがコンプレックスで、さらになぜ細いのが嫌なのかを考えると、「男はガッチリしていた方がかっこいい」という典型的なマチズモに犯された恥ずべき自分の本性にぶち当たるのですが、タトゥーを入れることで自分の体をもっと愛せるようになると同時に、ガッチリ(強くてかっこいい)⇔ガリガリ(細くてダサい)の二元論の外側に出られるのではと考えました。

 

結果、おれは以前はできれば見たくなかった細い左腕を、今では見るたびに嬉しくなるし、なぜかこの模様が昔からここにあったかのようにすら感じています。それでいて他人が常に身体に介入している感じ。大袈裟に言えば身体が世界と接続されているような。でも変えたかった価値観が変わったのかどうかは正直わかりません。実際すぐに変わるようなことではないと思います。でもおれは戦っていくしかないのかなと思うし、タトゥーは(この文章も)その痕跡になればいい。

 

 

おれは昔から「近いうちに死ぬんじゃないか」という感覚が常にうっすらとあるタイプで、それが時期によって強くなったり弱くなったりしているのですが、早い話が「明日死ぬと思って生きろ」的な人生訓が説教じみたコピーではなくて実感とともに「実際そう」なものとしておれの行動を動機づけているようなところがある。これはうつ的な話ではなく単に自分の運動神経の悪さに起因していて、階段を上がっている時に次にどちらの足でどの段差を踏めばいいのかわからなくなって「このままだと後ろに倒れて後頭部から落下して死ぬ」とふわっと思ってる間になんとか勢いで階段を上りきる、ということが度々あるのだけど、そうした日常の中での「このままだと死ぬ」という自分の運動神経の悪さを原因とした「死ぬ光景」がおそらく無意識の領域に大量に転がっていて、それが「近いうちに死ぬ」という感覚につながっているのだと思う。

 

おれの中ではこの「近いうちに死ぬ」という意識と、「未来に生きる自分がいる」という意識が常にあって、その二つは全く矛盾する感覚なのだけど奇跡的に同じ結論を導く協力関係にある。未来の自分も階段から落ちる自分を想像している。