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保坂和志ばっかり読んでいる。といっても小説を読んで、読むのをやめた時に戻ってくるあの感じが今はキツイなと思うのでエッセイを読んでいる。アマゾンで保坂和志と検索してwikipediaでどれがエッセイなのかを見ながら全部注文したらとんでもない量になってしまった。ポッドキャスト茂木健一郎が2005年くらいにどっかの美大でやってた講義録を多分全部上げていて、その最終回が保坂和志だったので聞いてみたんだけど、なんか思った感じの人ではないなと感じた。だからといって読むのをやめるわけではない。なんにでも、自分にとって適切な距離感とか角度はある。保坂和志は色んなものをクソだと言うけど(実際にクソという言葉は使わないかもしれない)、なぜか文章で読むとそんなに嫌なオヤジって感じではなくて、それはやたらと猫に優しいとかそういうところで自分が勝手に好きなタイプのオヤジを当てはめてたのかもしれない。菊地成孔がラジオでよく、自分の発言が正しいかどうかとかどうでもいいから、すぐ調べんなみたいなことを言っていて、保坂和志も同じことをよく書いていて、編集者の校正にキレている。菊地成孔は読んだ印象と喋るのを聴く印象がめちゃくちゃ一致してる。音楽もかなり一致してる。

 

おれは音楽があんまり好きじゃないのかもしれないとずっと思っていたんだけど、最近どうも単純な意味でそういうわけではないとわかった。まず音楽が好きじゃないのに自分で作ったり発表したりしないだろうと思われるが、音楽を作ったり発表したりすること自体が好きな人はいる。おれはそれだと思っていたんだけど、それにしては音楽を聴くのがめちゃくちゃ楽しいと思う時がある。瞑想をしていて、思考というものが対象化されていく過程で身体がおのれというものの媒介ではなくなっていく感じというのがあるんだけど、クラブで身体を音楽に同期させていく、つまり踊っているという感覚なしに踊っている時というのはかなり近いところがあって、それが楽しさとか喜びみたいな言葉と深く結びつけられるというのは音楽が好きじゃないと陥らない感覚なのかなと思う。それは音楽が好きなんじゃなくて音楽を利用してトランスするのが好きなんでしょ、対象じゃなくて行為が好きなんでしょ、と思われるかもしれないけど、対象と行為を切り離すことが原理的にできない、少なくとも自己から開かれた世界の中では行為からしか対象を認識できないんだから行為なしに対象を純粋に価値判断することはできない。世の中のものは全て行為であって、名詞だけで認識できるものは一つもない。

 

で、それでも音楽が好きじゃないのかもなと思っていたのはおれが嫌いな音楽が多過ぎるから。音楽が好きな人の好きさというのはおれからしたらかなり驚きで、本当に何でも好き、というかなんでそんなに色々な種類の音楽を聴けるんですか、好きになれるんですか、という疑問でいっぱいだ。もちろんこれは無理っていうのが誰でもあるとは思うけど、おれの無理の多さは子供の飯の好き嫌いみたいだと思う。グルメな人は好き嫌いないでしょう?まぁスナックとかは食べないかもしれないけど、音楽が好きな人ってスナックとかも食ってるんですよ。で、そういう人が音楽をやってる人でめっちゃいっぱいいる。まぁさすがにテレビで流れてる曲しかわからないみたいな人よりはおれも音楽好きだと思うけど、現役でプレイしてるDJは少なくとも全員おれより音楽好きだと思う。というかDJってマジで一生やれる気がしない。

 

でも今書いた、好きじゃない音楽がたくさんあるってことと音楽が好きかどうかはあんまり関係ないんじゃないかと思ったということを書こうと思ったんだ。狭く深く好きなのも音楽好き、みたいな浅い話は今はしてなくて、音楽という言葉がこの世界での音楽という体系化された大きな一つの営みの生成と同義になってしまっているということを考えている。この話をちゃんと書こうと思ったんだけど、結構大変そうだからやめておく。これはただのブログだから。

 

実感として、原義的な意味での音楽というものがこの世界の体系によってすごく収斂されているような感じがしている。体験の外の体験みたいなことを言うとスピリチュアルになってしまうから迂闊に書けないけど、近いところでは例えば今日カニエの曲を聴いてる時にパソコンのシステムの音が混じって高揚した。外でバドパウエルを聞いていたら、イヤホンの外のスズムシの声が奇跡的なバランスで重なり、喜びを感じた。今書いたようなことは現代音楽とかでとっくに発見されている音楽の可能性だけど、偶然性とかノイズとかそういう音楽の体系の中になんとか位置付けようとしたところで途端に収斂されていく。対象が先にあって行為がそれを追認していくような経験になってしまう。音楽が文化とか営みとして形作られる、というかそれ以前に経験として喜ぶことができるようになるには名付けられていないといけないような気がしているが、それは本当にそうなのかな。優れた音楽、というかおれが優れたと思っている音楽を作っている人は可能世界の体系から音楽を聴いているような気がするのだけど、どうだろうか。