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今日、漱石の坑夫を読み始めたら、最初の3ページ目くらいの記述で、道端の怪しい男がこっちをジロジロ上から下まで見てきたというただそれだけのことの描写に何行もかけていて、しかもその文章の主体はほとんど目線のダイナミズムだけというとてつもないものだったのだけど、やっぱり漱石のこういう映画的な記述がおれは好きだし、文章が情報と等価になろうとしていく流れの中で、こういう文章に愛着を持ってしまうというのはある種必然なのかなとも思う。おれは文章に対してとことん信頼感はもっていないのだけど、別に難しい顔をしてデリダとかロゴスとかいうまでもなく、誠実さでもって果たされる仕事が文章にはあるという話だと思う。おれは表現としての文章の作り手ではないけど、明らかに映像や音楽における誠実さと、文章におけるそれでは違う色を持っている。

 

しかしバロウズが誠実ではないのかと聞かれたら難しいところだ。確かに誠実ではないかもしれないが、そう考えるとビートニクは文学じゃなくてアートだ、という貧相すぎる解決になってしまう。文学とアートを分けることこそナンセンスだ、というのも貧相だ。