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音楽を作りたい。ここのところ音楽を作っていなくて、その代わりに刻々と迫っている引っ越しやそれに向けて金をどう増やしていくかということに気を揉んでいる。正確には気を揉んでいるのは後者だけのはずで、前者には希望しかないのだけど、金銭面での心配というのはその原因となる事象に対するイメージにまで侵食していて、何の違和感もなく2行目の文章を書いてしまっていたので、全て書き終わった後にこの部分を加筆しました。

 

最近仕事で初めてあった人と少し雑談をしていたら、おれの雰囲気がyahyelの篠田ミルに似ていると言ってきてどう反応したらよいかわからなかったのだけど、話し方が知的で、と付け足してくれたので素直に喜びました。それ以前にも「金子さんはフランス映画とか好きですよね?白でも黒でもないというか」と別のある人に言われ驚いたことがあるのですが、その二人はどちらとも芸人さんで、芸人さんって人のことよく観察してるんだな、とやけに感心してしまいました。これは少し有名なことかもしれませんがおれは東京のお笑いの裏方で多分トップ10くらいに入るくらいに見た目が恐い(つまり知的、文化的という言葉とは縁遠そうな様相をしている)のにもかかわらず、(おれが知的であるかは置いておいて)おれがヤンキー的あるいはマス的なカルチャーではなく文化的(と分類されるであろう)カルチャーやコンテンツと触れてきたことを所作で見抜いていました。二人とも評を下すのに1時間と要していませんでした。

 

文章などというものによっては何も共有できないとさえ思う時があります。それは140字であろうが2万字であろうが。テクストとはなんと不自由なものだろうか。特に、ここだけの話にとどめたいですが、いわゆる“上手い文章”(≠美しい文章)というものを読むと反吐が出る。わざわざ不自由なテクストという手段の中でも既存の評価軸を意識したようなものを書かざるを得ない神経、書いているのではなく書かされている精神状態を目の当たりにすると同情せざるを得ないし、同時に日本人の病理の深さを嘆くしかなすすべがなくなる。

 

 

 

妹はじゃがりこが好きで、変わり種みたいな味のやつをたまに買ってくるのですが、昨日買ってきたアスパラベーコン味がどうしても気になりすぎて少し分けてもらったら、アスパラベーコンをかなり圧縮したデジタル的な手法で再現していて、たしかにアスパラベーコンとしか言えない味なのにアスパラベーコンとはかけ離れているという不思議な感覚を覚えました。