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2月に入ってから一度もブログを書いていなかったみたいです。このブログは特に更新の告知をすることはなく、偶然リンクを踏んだりなんとなく気になってのぞいたりとかした時に生じるコミュニケーション、言うなれば置き手紙的なものを目指しているのですが(これは現代のネット上で覇権的な既読的責任からの開放への志向を意味しています)、今さっきアクセス解析を見てみたらコンスタントにこのブログを訪れている人が数名ですがいるとわかり、信条に反して必要に駆られ文字をタイプしています。だからと言って人が興味を持ちそうな話題を持ち出すとか、読む人の感情を先読みするような書き回しをするような、エンターテインするための文章を書こうという気は全く無く、今まで通り、少し聞きかじった程度の人文学や精神分析の用語を全く注釈をつけずに私的な解釈の上に並べ、なんとか一個の実存の記録としてのブログ(あるいは日記)として成立させるような試みを続けるつもりです。これはペルソナのいない書き物なので、読者のリテラシーに任せるといったような高飛車な態度ではなく、むしろその逆で大いに誤読してもらうことで、初歩的なレベルでの文章の可能性を活用していきたい。故にこの文章は非常に私的かつ公的であるという矛盾を目的の一つとして内在しています。

 

このようにブログでブログについて語るというのは「自分語り」的なウザさを少なくとも孕んでおり、その自覚すらもここで書くと言うのは「わかってやってますけど」的なメタ認識の誇示として薄寒さを人に与えるものです。それでもなぜそのようなことを書いているのかというと、一つは自分の中でなぜブログを書いているのかということがわからなくなってしまったからです。最初の記事でこのブログが始まった理由については確かに書いたのですが、今それを読んでも全く自分のことのようには感じない。おそらくただなんとなく「書こう」と思ったから書いて、混じり合った感情の結果としての理由をエンコードして固定し、出力することで文章との共犯関係を結び、自分で自分を興奮させていたんだと思います。つまりおれという人間(あるいは人間一般がそうなのではないかと疑っていますが)は行為の動機を確認しながら同時に作り上げるという(見方によっては悪)癖があるのです。冒頭の文章は根拠を語ったものではないですが、ブログを自分から引き剥がすことで客体化しているという点では同じ動機に基づく工作です。さらにこの文章、今まさに書いているこの文章でさえその論理に回収されていくという、理性批判のめちゃめちゃしょうもないバージョンが開始されてしまうので、この勘ぐりは一旦停止します。

 

ただ別に書きたくなくなったとかではないのだと思います。そもそも勝手に書いてるのだからやめたくなったらやめれば良い。こんなことを書き始めてしまった理由として思い当たる節としては、これを書いていなかった間に音楽をずっと作っていたというのがあります。いざ文章を書こうと思って画面に向かった時に「書く」という行為が持つ自己開示のナルシシズム的側面と、自己を客体化していく過程で生じるマゾヒズム的側面がまざまざと立ちあらわれ、音楽を作るという行為とのギャップの大きさに困惑を覚えたのかもしれません。つくづく「書く」とは倒錯的行為だと実感します。

 

 

書こうと思っていたことを思い出しました。

 

3週間くらい前に、母が台所で「良い塩を買った」と言って良い塩を見せてくれました。今思うとそんなことを言う必要はないのですが、「目隠して舐めたら絶対わからないよ」と言ってしまい、それに母が応じてしまったので、ブラインドテストをすることになりました。良い塩は、粗塩というんでしょうか、粒が大きくて舌触りで通常の食塩との違いがわかってしまうので、わざわざすりつぶして、母に交互に舐めてもらいました。おれが「どちらが良い塩?」と聞くと、少し迷って母は普通の塩を選びました。

 

好きな食べ物は?という質問がありますが、あれってちゃんと答えようとするとかなり難しいです。ソムリエみたいに特殊な訓練を受けていない限り人間の味覚なんてかなり不正確で、自分の普遍的な趣向に完全にあった食べ物(仮にそういうものがあるとして、という留保が先の質問の背後にはあります)が何なのかを判断することなど不可能に近いと思います。なので自分含め一般的には「これが自分の好きな食べ物」というのを一応決めておくことで、そのような質問に対処しているのだと思いますし、幼少期から好きな〇〇は?という質問に答えるという訓練によって、自分はこれが好きなのだという建前を作る社会的なスキルを我々は共有しています。もちろん本当にその食べ物が好きだと信じることは可能ですが、それはその食べ物が持つイメージや個人の思い出による部分もかなり大きく、それ含めその食べ物だと言ってしまうこともできますが、「好きな食べものは?」という質問の一義的な意味(かつ、イコールで結んでも多くの人は異論を唱えないであろう文言)である「あなたの味覚の趣向を教えて」への答えとしては厳密には不正確です。おれは好きな食べ物を一応寿司ということにしています。寿司は料理名として宣言してよい唯一のアラカルトの集合です。もちろん寿司の基本的なパッケージ(酢飯と魚の切り身)が概ね自分の趣向に合致しているというのは否定できないですが、寿司という選択肢は自分の趣向を固定化して宣言してしまうことの罪悪感を薄めてくれるという点で件の質問への応答として信頼しています。

 

良い塩の味がいつもの塩と違いないことを母に身をもって知ってもらった後、おれは軽い罪悪感に見舞われていました。たかだか数千円かそこらで、家事の一部が少しでもいい気分になるのであれば、そのままタネを明かさないほうがよかったのではないか?良い塩といえど塩なので、そんなに頻繁に購入するものでもありませんし、年間の出費で考えればたかが知れています。良い塩の販売業者だって真っ当に高級な食材を売っていて、不当に儲けているというわけでもなさそうですから、搾取だとかそういった方面でも非難されるいわれはないでしょう。話を拡張すると、啓蒙とはこうした個別の事故を乗り越えていくことを前提として、全体としての幸福のレベルを引き上げることを志向しているのだと思いますが、そうした主知主義を盲(蒙)目的に信じるのが一つのイデオロギーにすぎないと今でははっきりいえます。

 

 

なんだか全体的に、音楽を作っていた時の手癖というか流れを引きずったまま文章を書いてしまったように思います。全体のダイナミズムと情動的な筆致は意図したものではありません。音楽を作る方が楽で楽しいですが、文章を書くこともまた倒錯的な快楽に満ちています。