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8月26日を最後にブログを書いていなかったみたいです。最近の興味関心というか、見たり読んだりしているものがつながってきた感触があるので、そのことを簡単にしたためておきたく、ここに記録します。(書き終わった後に、ちょっと嫌なことも書いてしまったなと思ったので、固有名に検索よけの伏せ字をした読みづらいところがあります。)

 

 

少し前に、CGアーティストのJackson kakiがfu施りn太郎の最新の個展〈新しi死体〉に関する配信をやっていて、それをなんとなく見ていました。おれはその個展自体は見ておらず、むしろあまり好きではないタイプの現代美術(文化資本モリモリの家の出、つまり趣味のいい家具の詰まった実家のスピーカーでジャズやクラシックが当然のように鳴っているような家で育ったアーティストがやってる、「現代美術」のステレオタイプを焼き増ししてるだけみたいな美術(とおれが一瞥して勝手に偏見してるだけですが))なんですが、カキ氏の作品は好きなので流し見していると、かなり死体の話になっていて、琳ta郎氏の父である布施英利の著書から、ネット上のアングラなエログロを通り、Jon Rafmanの映像作品に言及し、バタイユも引用してきて、個人のチャンネルでする一人語りにしてはかなりちゃんとしたレポートを見ることができとても楽しかった。

 

 

その少しあと、ドミューンで村崎百郎や鬼畜系カルチャーに関する特集をやっていて、それもちょこちょこ摘み見していました。ちなみにその番組内でも鬼畜系の源流の一つとして布施英利の「図説・死体論」は紹介されていた(「死体を探せ」の方だったかも)。なんだかんだで80.90年代サブカルチャーってちゃんと見てないなと思い、電子書籍で「鬼畜のススメ」を電子で買ってみるんだけど、正直ノリがあんまりピンとこず。それで、哲学の本を読むときもそうするように、原著ではなく解説書を先に読むべきだと気づいて、ロマンポルシェロマン優光が書いた「90年代サブカルの呪い」を買って読む(その間にも色々ネットで調べて読んだり見たりしていた気がする)。同書はアングラなサブカルが与えた影響(わかりやすい例だと小山田問題的なものとか)について、サブカルサイドの当事者としての感覚をベースに持ちつつも、現代の価値観からの視点で考察している良著です。あと、ドミューンの番組に登壇していた虫塚虫蔵というおれと同世代くらいの人がかなりギークな語り口で鬼畜系・悪趣味系への愛を語りながらも断罪すべきところは断罪するという姿勢を見せていたのがよかったなと、この本を読んでいて思い出したのですが、リアルに体験している人が価値観を現代に合わせて当時を評価しているのと、現代の価値観を自然に持っている人が古いカルチャーを客観的におもしろがりつつ評価しているという2つの視線の交わりは、今この時代特有のものになるかもしれない。

 

昨日は久々に友達と会って酒を飲むために(最近は人と酒を飲むのは月に2回ぐらい)新宿の方に向かったのですが、飲み屋に行く前にブックオフ根本敬の「因果鉄道の旅」を買いました(新宿のブックオフのラインナップがあんなにしょうもないとは知らなかった)。正直かなりおもしろい本ですが、今では(当時もそうだったかもしれないですが)あまり大きな声でそう言ってはいけないような本です、が、おもしろいです。少なくとも他人にはあまりおもしろいとは言えないけど、おもしろいと思う感覚がおれにはあって、けど時代が進んでいったら人はこれをおもしろいとすら思わなくなるかもしれない。それは幸せなのかよくわからないですが、正しいということではあると思います。

 

 

いい映像を作りたいと常に思っているけど、「かっこいい」「気持ちいい」モーグラやvfxみたいなものには興味がなく、もしかしたらおれは80-90年代サブカルみたいなものをやりたいと思っているのかもしれない。本当はそれはあんまり関係ないのかもしれないけど。とにかく今はafter effectsすら使わないような映像を作りたい、というか、素晴らしい音楽と撮影素材があればそれに敵うものはないのかもしれない。

 

 

 

すでにこのブログに記録していたかわからないですが、友達と二人で江戸川沿いの一軒家を借りることが決定し、来月入居ということになりました。引っ越すなら川の近くがいいなと思っていたので嬉しい。一軒家というのもテンションが上がる。おれは家族の状況がちょっと良くないところにあって、本格的に居住を移せるのがいつになるのかわからないけど、10月からちょこちょこ行って少しずつ新居を住みやすくしていくつもりです。居住をうつすことで良くも悪くも事故は起こると思うので、そういう事故を心待ちにしている節がある。良い事故だったらいいけど、悪い事故でもそれはそれでいい。

 

 

 

まったく筋というものがないけど、もう一個書こうと思ってたことを思い出したので書きます。

 

おれはドレッドヘアを7年か8年くらいやってるんですが、ドレッドやアフロというのはいわゆるブラックヘアというもので、髪がチリチリの黒人の文化です。自分もそうですが多くの日本人はストレート、天パといっても伸ばしただけでアフロになるようなものではないので、ドレッドやアフロにするにはわざと髪をチリチリにしたり傷ませたりする必要があるんですが、そうやって自分を違う文化圏の風体にするというのは、自分の周りで異文化の人がどういう生きづらさを感じているかをすごく実感することになる。どういうことかというと、マツキヨなんかにいくとずらっとシャンプーが並んでいるんですが、そのほとんどが頭皮を洗浄するということだけではなく、いかに髪を綺麗にするかということを付加価値としてアピールしており、その「綺麗さ」というのは、サラサラであることに限るのです。実際、ドレッドの自分はそういった「綺麗さ」を作り出す成分がシャンプーに入っていると、髪が「綺麗」になってしまうので、選ぶことができず、いつも買っているものが廃盤になってたりすると自分に合いそうなものを探すために結構時間をかけることになります。おれは自分が好きでドレッドにしてるだけですが、日本で暮らす黒人の方は差別とかそういうこと以前に大変に感じることがたくさんあるはずです。店頭のシャンプーとかは商売に関することなので、これは正直言って仕方のないことだとは思いますが、自分の見た目を改造してみるということは、周りからの視線と自分からの視線という問題だけではなく、もっと即物的な次元で摩擦を経験することでもあり、それによって内部すら改造されるということにもなります。少しお金が溜まってきたら身体中にいろんな大きさの真っ黒い正方形のタトゥーを入れようと思ってるんですが、それで何が自分に起きるのかとても楽しみです。