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今日は突然寒くなってしまったのもあってめちゃくちゃやる気が起きず、仕事を少しだけやってその他のやるべきプロジェクトを開いたり閉じたりしていました。こんなこと大きな声では言えないけど、おれは全然ダメな大人、というか、おれみたいな態度で色々やっていたら社会は成り立たないというような部類の人間です。おれのことを、機嫌が安定してるとか大人だと言ってくれる友人が結構います。これにはからくりがあって、ちゃんとした大人をやっていないから余裕があるだけです。毎日通勤電車に乗って、働いて、休日は善き友人または恋人であり、同時に良き消費者として模範的な国民を全うしていれば精神の余裕はすぐに尽きるでしょう。おれは規範意識というものを幼少期から少年期にかけてガチガチに詰め込みすぎたせいで、ダムが決壊したタイプなんですが、大人になっても決壊のさせ方がわからずに自分を不安でいっぱいにしてる人が多くて可哀想というほかない。全員決壊させてしまったら先にも言ったように社会は終わってしまうのですが、自分より社会が大事とは到底思えないので決壊まではいかなくとももっと上手に放流すべきだとは思います。


作業のやる気が起きないので本を開いていたんですが、やっぱり作業をやらないとダメだよなぁ、と思いながらの読書はいやなので、いっそ映画を観て自分を拘束してしまおうと、虫プロ制作の千夜一夜物語をみました。我ながらとても良いチョイスでした。アニメの実験的な表現のうち、実写との合成だとかは初期のフライシャーがやっていたことの延長なのですが、手塚としかいいようがない漫画的演出の数々は、絵が動く、という原初的なアニメーションの快楽を一層濃くしていました。このアニメはかなりエロティシズムの色が濃いのですが、官能としての曲線は2月に見たフランソワポンポンの動物彫刻を思い出しました。


この映画は今書いたように実験的要素を抜きにしても傑作だけど、看板としては実験的映画だと思いますし、実験的部分ももちろん素晴らしいです。ただ、おれは表現としての前衛が好きなタイプだけど、一方で前衛が時代的なものであることは理解していて、ポストモダンの頭にもう一つポストがついて違和感がない今の時代に、表現形式としての前衛が今でも純粋に輝きを放っているとはさすがに思っていません。だからこの前衛への愛着というのは自分が生まれたくらいまたはその少し前の時代への憧憬みたいなものも含まれていて、(だからこそ昨今の安易なグリッチブームには飽き飽きしているのだけど)翻って今の時代に立脚した自分がなすべきこととは何なのかを常に考えている。いま制作中の音楽はその答えの一つなのだけど、あまり深く考えすぎても面白くなくなる、砕いていうとバイブスが下がりそうなので、ある種の情熱に任せて作っていくことも大事にしたい。だからこそ音楽は若いうちの方が上手く作れるし、音楽家には若い天才が沢山いる。


新しさは常に大事だけど、そこへの純粋な驚きが己の無知からくるものではないかを常に疑うべきだと思っています。それは単におれが模範的な市民ではないから、といわれればそうかもしれないですが、決壊したダムから流れたエネルギーがこういうある種のシリアスさに向かっている気がしていて、逆説的に、社会とはシリアスさを規範意識に変換して抑え込むシステムを孕んでいると言えそうです。この文章も社会のパースペクティブから見たら無意味この上ないのでしょうが、そういった世界にこそ無意味が必要であるとおれは確かに信じているし、それは単なる前衛以上の力を持った脱構築的因子だと思っています。