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創作でも言論でも、クリシェに対して特権的な苛立ちが立ち現れるのはなぜなのだろう。何か意見を通すためにクリシェを用いられると本当に無力感に苛まれてしまう。何も言い返す気が起きなくなってしまう。口当たりのいい言葉で気持ち良くなっている人には何を言っても無駄だし、それを前提としたメタ的な意見も通用しないだろうと思ってしまう。けどそういう人を見下したような態度を自分の中に発見することの方が、この事象の本質的な嫌さではある。

 

椅子がソファよりも断然魅力的なのは、それが武器になりうるからであろうか。それとも、「容易に動かすことができない」というソファの特性への不安が自分の中にあるからだろうか。

今年の映像作家100人の書籍版を買ってじっくり眺めるのを楽しみにしていたのに、一気に色々なことを引き受けすぎてほとんど中身を見れていない。でも一般の社会人もきっとこのくらいのサイクルで忙しさと闘っているのだろうと思う。本当のことは一生わからないけど、とりあえずはこれを乗り越えて映画館にふらっといくあの生活にまた辿り着きたい。あと最近無性にディズニーランドに行きたい。おれはディズニーランドにいい思い出がたくさんあるからディズニーランドが好きなのかもしれないが、それはある服装をするのがその服装自体への愛着なのか、その服装をよしと思えるセンスの表明なのか完全に分つことができないのと同様の事情で、いまのところおれは何も断言できない。

文章とは主観を全く排除できない、究極的に閉じた場であり、また執筆というものが有限の選択肢からイメージと近似する言葉を選ぶという行為の連続でしかないという性質上、テキストの中での描写というのは端的に嘘であり、そういう意味では日記とは小説なのだと思います。なのでおれは日記で周りの人のことを書こうとは思わなかったんだけど、今の状況的にあえてそういうことをしてもいいんじゃないかと思った。小説は現実をモデルにしているのに、現実的な小説というのはなく、むしろ小説的な現実がそこら中にあるのは一見不思議ではあるが、それは現実を小説化しているからにすぎない。

 

と、ここまで書いてここ最近の家族についてのことを書こうと思ったんだけど、どう書いたらいいのかわからなくなってしまいました。どこをどう切り取って、今の状況をどう説明したらいいのかさっぱりわからない。おれはまだ現実を小説にする踏ん切りがついていないのかもしれません。文章なんか所詮ここにしかないので、たとえどんなことを書こうとそれは現実に何の影響もないはずなのに、本当に現実が小説化してしまいそうな気がして恐ろしい。文章にすることで、曖昧だった世界の曖昧さが失われる可能性というのはあって、それは帰りの切符をなくすということです。

明日、久々に高校時代の友達に会う予定があるのにお金が全然なくてすっぽかそうかと思っている。昨日、久々に女性と飲みに行って奢ったりしたら懐がたちまちすっからかんになってしまって、こういう感覚を忘れていたなと思った。今日は結構ありえないミスをして、大きく迷惑をかけたとかではないが落ち込んでしまったし、関わっているコンテンツのサーチをかけたらそのファンからの不満みたいなものがいくつか書き込まれてあってどっと疲れが出た。こういう時に毎日チームで顔を合わせる様な環境であったら幾分楽なんだろうと思う。

 

最近は胃腸の調子が悪い。寝つきはいいんだけど目覚めが悪く、元々持っている耳鳴りが一層うるさい時がままある。食後に動悸がするのであっさりした飯を食いたいのだけど、コンビニで買う飯は全部しょっぱいし、かといって飯を作る余裕がなくて困った。こう連ねると元気がない様に見えるが、ただ大げさに辛く感じたいだけな様な気もする。飯を食いながらyoutubeを見て1人で声を出して笑ったりとかも普通にしている。

 

最近はJpegmafiaとDanny Brownの共作のアルバムばかり聴いています。この間インスタに久々に作品を上げたんだけど、完全にペギーのビートを意識して作ってしまった感があって、以前はこういうことを言うのはかなり恥ずかしいと思っていたのですが、もうそんな風には思わなくなるべきなんだと最近は考えている。作家の神秘性みたいな概念はもう期限切れだと今更言いたい訳ではない。かといってタイプビート的な加速主義に与する気もない。そうではなくて、単純にリファレンスの出典を示してよりよい作品を提示することが、歴史的にみて音楽を前に進めるということなのではないかと考えるからだ。ちなみにこれはそのまま橋本麦がブログで書いていたことで、「〜〜ではない。〜〜でもない。〜〜なのだ」は蓮實重彦

 

今日吉祥寺の百年に行ったらペギーの曲がかかっていた。新しいやつではなくて、ひとつ前のEPから。

作ったビートにつける動画を作るつもりが、色々なことが重なってまだ着手できていない。今日と明日でどこまでできるか。一昨日と昨日はとにかく忘れ物が酷くて、そのために時間とお金をたくさん使ってしまった。習作は週に1つ作って週作にしてしまおうかなどと企んでいたのに幸先が悪い。それでもこの運の回りと、「でも、やるんだよ」という、文脈をとればサブカルであり文脈を無視すれば単なるマチズモ的な不思議な言葉との間でおれは彷徨くしかなかった。

今日は誘いを断ったり、断られたり、待ち合わせに人が現れなかったりした。妹が落とした財布を受け取りに警察署に行った。ブックオフ東浩紀「ゆるく考える」、オーケンサブカルで食う」、三木清「人生論ノート」を買った。最近日本人の本ばかり読んでるな、と思う。というか買ってるな、という感じ。電車の中とタリーズでは蓮實重彦の『反-日本語論』を読んでいた。人との会話が多い時期はこのくらいの軽さの文章がちょうどいい。

 

インスタグラムのアカウントを作った当初は結構コンスタントに音楽と映像の短い作品をあげていました。元々はAEの練習のためでもあったんだけど、割と日記にちかいような感じで習作をポンポンとアップしていて、それは小さな充実につながっていたと思います。これをまた再開させようとふと思って、昨日はビートを作っていました。ダラダラと作るのは、これに関しては意味がないことだと思うので、映像は今日と明日でできる範囲で作って、合わせてアップするつもり。ブログを書くと文章の中で思考するということができるのですが、音楽や映像の中での思考というのも確かにある。