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知り合いから結婚式の二次会の招待がきました。インスタにしれっとリンクを載せているだけのこのブログはほぼ誰も見ていないため、これが本人に届くことはないだろうと思い書いているのですが、その連絡を見てからだんだんとしんどい気持ちになってしまいました。さらにはタリーズに行って本を読んでいる間にchatworkに仕事の連絡が入り、その失礼さに腹が立った後しばらくしたらさっきの憂鬱な気持ちにこの怒りの質量が加わり、結果的にざっくりと嫌な気持ちが夜まで大きく残った形になってしまっています。

結婚式というのは本当にしんどい。もうできれば誰もおれを結婚式の関連の行事に誘わないでほしい。男女で参加費が1000円違う綺麗な招待サイトを送らないでほしい。おめでとうございますの気持ちはあります。ただおめでたいということによって色々な良くないことがカバーされてしまうというのが本当にしんどい。カバーしなければやっていけないというのはわかります。そうやって成り立っているという事実がただ端的に辛くて、厳密にいうと辛いと言ってしまうとそれ自体が雑な形容で、本当に言葉にし難い、言葉にした瞬間に元のものではなくなってしまうような、ある窮屈さみたいなものが心の中にずっとある。

 

 

ハーモニカって面白いですね。あれは単音でも吹けるけど、基本的にはコードを演奏するようになっていて(いくつか種類があるみたいだけど)、あの小さな穴に正確に息を吹き込むのは難しいと思うのですが、おそらく(かなり適当なことを言いますが)ある種の大雑把さを持って挑むべき楽器なのではないでしょうか。おれが音を出せる楽器といえば、打楽器を抜けばベースやギター、仕組みが分かっているという点で強いて言えば鍵盤楽器くらいなものですが、どれも当てずっぽうでコードが弾けるということはまぁあんまりないです。ハーモニカはここらへんかなという高さのところで息を吐いたりすったりすることで一応のコードがなることになっています。そして明らかに離れた場所でない限り、つまり一や二の穴のずれや吹き損ないがあったとてコードとして不都合が起こるわけではないわけです(おれの中途半端な楽理の解釈でもっていえばですが)。そういう身体的なラフさが許容されているという点で、かなり打楽器的な楽器なのかなと思います。打楽器というかドラムセット的ということですね。ドラムも最低限の決まりだけ守れば明らかな不都合が起こるような音を出すということはなく、身体性が音楽として強く反映される楽器です。

 

ビートをやるようになってから、音楽を作るときに身体性という言葉が常に付き纏うようになりました。正直もうこのターム自体が陳腐になっていて、それ自体はもちろん要素として重要だけど、そこを超えてもっと別角度から、違う次元での創作をしなければいけないし、音楽を作るということはそういうこととセットになっているはずなのに、いつまでも古いエピステーメーに留まってしまう自分は本当に未熟なんだと歯痒い。