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約1ヶ月ぶりにブログを書いてみます。

この1ヶ月、祖父の通夜と葬儀があったり、結構きつめのスケジュールの編集仕事のしめ切りがあったり、引っ越しがあったりして、息をつく間もなかった、というと大袈裟がすぎるのだけど、少なくとも寝つきが悪い自分にしては珍しく、このひと月は布団に入って割とすぐに眠れるくらいには心身が適度に疲労あるいは緊張していたように思います。

 

この間、ほとんど映画館には行けなかったのだけど、1つだけ観たかった上映に行くことができて、それがアンダーグラウンドシネマフェスティバルという1週間の上映プログラムの中のおおえまさのり全作品1でした。本当は全作品2も見ることで全作品を観たことになるんだけど、そちらはスケジュールの都合で行けず。それでもおおえまさのりの映像作品を劇場で観ることなどなかなかできないので、とても満足でした。

全てに感想をつけるというのは今になっては難しいのだけど、やはり印象に残っているのは6等分された画面のそれぞれに違う映像、または同じ映像をタイミングをずらしたり違う速度で流したりするような映像効果で、プログラムが押し出している「サイケデリック」という言葉が浮いてしまうほどの社会性が、60年代当時のアメリカでの反戦集会や、ベトナム戦地での惨劇を記録した映像とともに映し出されていたのを覚えています。

 

 

脳には、「覚える」という機能と、「忘れる」という機能とがありますが、最近は忘れるという機能が実は人間の本質的なあり方に大きな意味を持っているのではないかと思っています。そもそも忘れるの前に「覚えている(記憶の持続)」という機能があるのですが、覚えると覚えているは厳密には区別することが難しいので、覚えると忘れるという2つで記憶というものは説明できるということにしておきます。

忘れるということの方が重要と書きました。というのも、「今」という感覚が成立するのは、「今」以外の時間における自分の経験のリアリティあるいはクオリアと言われるものが、「今」のそれに比べてはるかに薄れたものであり、それによって逆説的に我々は「今」だけを感覚して生きることができるからです。その、リアリティやクオリアの薄れというのは他ならぬ「忘れ」によって生じる現象であり、つまり人間が今を今として感じて生きているのは一瞬前までの記憶を常に忘却し続けているからだということに他ならない、と、そういう風に最近は考えています。