mi

今は12/31の22:13で、おれは市川にいます。同居人(一緒に住むまでは大学の後輩とか、一緒に音楽やってる奴とか、単に友達とか色々呼称していたけど、一緒に住むことでこの紹介が一番わかりやすくなったのでついこの呼び方を使ってしまう|人と一緒に生活するというのは、お互いのプライベートを極限まで曖昧にしていくということなのに、「同居人」という言葉のドライさはそれを表現しきれていないのだが、「ルームメイト」は何だかティーンエイジャーっぽい小っ恥ずかしさにたじろいでしまうし、結局同居人という言葉が落ち着く。寝食を共にして、時に互いの恥部を開示することにさえ慣れていくような関係性というのは、ある種のドライさで覆い隠しておくことが礼儀なのかも知れない)は一足先に実家に帰ったのですが、おれは残った作業を済まして、引っ越し以来まだ一度も整頓されたことのない自室を掃除しないことには帰省することができないので、いつもと変わらずパソコンに向かっています。


今、これを書いているのはmacbookで、すぐ隣に目を移すとimacスクリーンセーバーを映しているのですが、カラフルな光をクラゲの様に発しながら浮遊するグラフィックがカクカクと動いているのに気づきました。このパソコンは確か2019年くらいに買ったのでもう結構使い倒した感があったのですが、最近ではdawを使うときくらいしか開いてなかったので、こんなにもボロになっていたことに気づいていませんでした。それでもカメラを買ったばかりで、macbookのローンだってまだまだ残っている自分にはどうすることもできない。

 

Twitterを覗くと、紅白の話題とか、今年を振り返るツイートとかを見ることができて、国民の分断がどうだとか言われる昨今でも、年の区切りという祭事的な力の元では一応の何らかの合意やある種の結束があるんだと励まされる。