mi

今目の前にはiMacのディスプレイがあり、それを挟む形でヤマハのモニタースピーカーが2台、机の上に置いてあります。それぞれの上に読みかけの本が計7冊くらい置いてあって今ふとマクタガートの時間の非実在性の文庫の背表紙と目が合いました。この本は永井均が解説を書いているんだけど、実はページの半分以上がその解説パートにあてられているのが何だか変で面白い。昔買って読んでいたエラスムス痴愚神礼讃も、たしか語の解説に半分以上の容量があって、こういう歪なバランスの本というのは本の内容や形式といった要素に加え、キュレーション的な要素が少し強めに入っているような感じがして何だか嬉しい。文芸誌とか、アンソロジーとか、そういった初めからキュレーションありきの場所でないところで自ずと誰かの采配が現れざるを得ないというところに、面白みを感じている。

 

時間の非実在性がこちらを見ている前でこう書くのも居心地が悪いけど、時間をあえて物理的に示すなら単線的なものです。でも、天体の動きやそれに伴う季節の巡り、またそれらを生活の次元に手繰り寄せるようにして構成された時計やカレンダーが円環的に構成されていることによって、ときに時間というものが周っているような、そういう感覚を持ってしまう。音楽も、楽譜やDAWのシーケンスの上では水平の運動しか本来はないけど、指揮やダンスという身体的な次元ではそれらは回転に近づいていく。グルーブというものは非常に円環的な現象です。ただ実は、この円環はうずまきや年輪のように平面的なものではなく、バネのような、回転しながらZ軸に伸びていくようなものであって、まっすぐの針金をまとめるためにぐるぐると巻きつけていっていた形状に近い。

 

単線の時間というのは意識しづらい、というか自然状態のものは本質的に意識することができないので、人間は常に意味づけを行なっているのですが、意味付けに思考の比重を乗っ取られてしまうと、(あたかも時間というものが円環でしかないといったような)誤った認識に飲み込まれてしまう。それでもなお、時間を円環だと信じることで、ある種のトランスが得られる(だからハウスみたいな音楽は垂直のレイヤーをぴったり整頓して、バネのように巻いた時に限りなく平面的(=円)に見えるように作ってあるんだと思います)。

 

文体にもリズムがあります。おれは言葉をあまり言葉そのものとして(意味の関係としてではなく)捉えるというのが苦手で、それ故に詩歌を感じるのが不得意なんですが、人によっては文でトランスに入るということも可能だと思います。絶対文感というものがあるとしたら、それはかなり尊い才能です。

twitterでよさそうな本や映画の情報が流れてきたら、メモのつもりでいいねしています。さっきなんとなく見返してみると、いいねしたきりになっている本や映画がたくさん並んでいて、途方もない気持ちになりました。俺の知らない素晴らしい本や映画はまだたくさんあって、しかもこれから生きていく中で新しいものが世界にどんどん追加されていく。大人になるとは何かを諦めることだと言いますが、本や映画を諦めることもその限りなのでしょうか。さらにいうとおれが死んだ後も執筆や創作は途絶えることがない、そういう事実があり、その途方もない無限性を前にすると逆に生の有限性がありありと立ち現れてきて、その中で何をなすべきかが問われているような気がします。というのは流石に大袈裟だけど、そう思わなければ一冊の本すら選ぶことはできない。無論これも大袈裟です。

 

昨日、カフカとサーカスという本を読み始めました。フランツカフカについての本なのですが、カフカは深夜に自室に籠もって執筆に励み、それが済むと居間にいる妹に朗読して聞かせたらしいです。あるいは「おれは今、小説を書いていたんだ」とアピールするそうです。これは、普通に、ただ単純に、俗にいう承認欲求を満たすためらしく、カフカという人にそんなかわいげがあったんだ、と驚きました。おれもビートを作って、本来はしかるべきところで発表するつもりだったのに、つい嬉しくて誰かに聴いてほしくなってネットにあげてしまうことがありますが、同じですね。よく現代人はSNSで承認欲求が加速していると言いますが、カフカが今いたらかなりイタいことになっていた可能性が高いです。

 

ちなみにカフカは変身と城の途中までしか読んでいないです。城を最後までちゃんと読む人、そういう人は偉いけど、きっと仲良くなれないです。吾輩は猫であるも同じく。これを機に他の著作も読んでみようかなと思うけど、部屋の積読とアマゾンの買い物カゴに入った100冊を越すバーチャル積読、先のいいね欄のメモ群のことを考えると、やはり何かは諦めなければならないように思えます。

ブログを見返してみたらなんだか暗い内容が多くてこれはいけないと思いました。おれはどちらかというとシリアスな人間だけど、人前でかなりポップに振る舞っている自覚がある時も結構あって、総合すると普通ぐらいのテンションかなと思っているけど、このブログのいくつかの文章から浮かび上がるおれの人格は全体的に黒みがかかっている。今、twitterでやたらうるさい人は現実ではめちゃ無口、という自分の中の偏見を思い出しました。おれはブログでは暗いけど、現実だと楽観的、という風になってると思います。ちなみにブログやtwitterでの人格がその人の本当だとかそういったことは全くなく、違う相手、プラットフォームを相手にしているんだから違う面に光が当たって見えているだけだということは付記しておきます。全てその人の一部。

 

これが文章ではなく声の記録媒体だったら、内容はどうなっているのだろう。おれは人と話していると口からことばが自動的に出てくるみたいにベラベラ喋ってしまうということがあります。多分、それは思考というより運動に近くて、ボールが飛んできたらキャッチするために足が地面を蹴って体をその方向に移動させるみたいに、言葉が言葉を反射的に探し出してその連鎖が発話になっているような状態です。おそらくこれがポッドキャストみたいな感じだったらそういう風に自動的に、それもそういうリズムで喋ると自然と明るい話題をベラベラ喋るようなものになっていた可能性もあります。一見、運動としての語りなんて表面的で面白くなさそうだけど、(シュルレアリスムの自動筆記や精神分析の臨床問診じゃないけど)意識していなかった自分の中での理屈みたいなものが発見できていいかもしれない。事実、この文章はできるだけ気を抜いて書くようにしていて(なので文語で書くという基本を結構破ってしまう)、その中で生まれた自分的には面白いアナロジーみたいなものもある。

知り合いから結婚式の二次会の招待がきました。インスタにしれっとリンクを載せているだけのこのブログはほぼ誰も見ていないため、これが本人に届くことはないだろうと思い書いているのですが、その連絡を見てからだんだんとしんどい気持ちになってしまいました。さらにはタリーズに行って本を読んでいる間にchatworkに仕事の連絡が入り、その失礼さに腹が立った後しばらくしたらさっきの憂鬱な気持ちにこの怒りの質量が加わり、結果的にざっくりと嫌な気持ちが夜まで大きく残った形になってしまっています。

結婚式というのは本当にしんどい。もうできれば誰もおれを結婚式の関連の行事に誘わないでほしい。男女で参加費が1000円違う綺麗な招待サイトを送らないでほしい。おめでとうございますの気持ちはあります。ただおめでたいということによって色々な良くないことがカバーされてしまうというのが本当にしんどい。カバーしなければやっていけないというのはわかります。そうやって成り立っているという事実がただ端的に辛くて、厳密にいうと辛いと言ってしまうとそれ自体が雑な形容で、本当に言葉にし難い、言葉にした瞬間に元のものではなくなってしまうような、ある窮屈さみたいなものが心の中にずっとある。

 

 

ハーモニカって面白いですね。あれは単音でも吹けるけど、基本的にはコードを演奏するようになっていて(いくつか種類があるみたいだけど)、あの小さな穴に正確に息を吹き込むのは難しいと思うのですが、おそらく(かなり適当なことを言いますが)ある種の大雑把さを持って挑むべき楽器なのではないでしょうか。おれが音を出せる楽器といえば、打楽器を抜けばベースやギター、仕組みが分かっているという点で強いて言えば鍵盤楽器くらいなものですが、どれも当てずっぽうでコードが弾けるということはまぁあんまりないです。ハーモニカはここらへんかなという高さのところで息を吐いたりすったりすることで一応のコードがなることになっています。そして明らかに離れた場所でない限り、つまり一や二の穴のずれや吹き損ないがあったとてコードとして不都合が起こるわけではないわけです(おれの中途半端な楽理の解釈でもっていえばですが)。そういう身体的なラフさが許容されているという点で、かなり打楽器的な楽器なのかなと思います。打楽器というかドラムセット的ということですね。ドラムも最低限の決まりだけ守れば明らかな不都合が起こるような音を出すということはなく、身体性が音楽として強く反映される楽器です。

 

ビートをやるようになってから、音楽を作るときに身体性という言葉が常に付き纏うようになりました。正直もうこのターム自体が陳腐になっていて、それ自体はもちろん要素として重要だけど、そこを超えてもっと別角度から、違う次元での創作をしなければいけないし、音楽を作るということはそういうこととセットになっているはずなのに、いつまでも古いエピステーメーに留まってしまう自分は本当に未熟なんだと歯痒い。

 

 

酒を1年間抜いていたのはいつだったか。たしか一昨年くらいだった気がします。動機は確かにあって、というか確かにあったという方向に自分を持っていくためにいろいろ語ったりした覚えがあるけど、終わってみれば動機というのは思い出す必要がないと思えてくるのでやはり動機なんてあってないようなものなのかもしれません。動機よりも遥かに重要なことは、酒をやめるとどうなるのかということであって、ひいては、それは酒とは何なのかを身を持って知るということなのですが、人には動機ばかり聞かれていた記憶があります。酒を控えるという考えは酒を飲んでいる人に浮かびうるけど、酒をやめるとどうなるのかは酒をやめている人にしかわからない。そしておれは1年の断酒によって酒を飲むとはどういうことなのかという得難い知見を得たのです。


今おれは2年くらいデートをしていない。これは断酒のケースと違って、狙ってというわけではなく、かつてのパッションを失ったというただそれだけのことなのですが、やはり何かをしなくなるということは、それがどういう効果を持っていたのかを知るということにつながっています。

すごくシンプルに、酒にしろデートにしろ、人はある種の変身をしなければ生きていけない。生きていけるかもしれないけど、人間的な生は能動的な度重なる変身体験への投企の上にこそ成り立ちます。変身と言えばカフカ仮面ライダーだけど、どちらも虫への変身です。前者は醜い毒虫で、後者は屈強な甲虫の戦士。どちらの可能性も孕んだ変身をしなければ、人間の内面は硬化してしまう。

さなぎの中身が一度液体となり、己の実態を解体する事実、スリル。饗宴と性事は世界の最後まで漂白されることがないでしょう。

今日は暖かく窓の外も気持ち悪いぐらい青くて過ごしやすそうだったのに、目覚めからずっとうっすら頭が痛くて、バファリンを飲んでそれを押さえてもなお居心地が悪いというか、体が落ち着くような姿勢とその形に落ち着く空気の形がないという風でした。とにかくだるかったので、頭痛ーるを開くとやっぱり関東は激しい低気圧の最中にあるとのことで、仕事もほどほどにコーヒーをいつもの1.5倍くらいの濃さで入れて、脱力して過ごすことを決心。観かけの(おれは映画を1時間ずつとかで小分けで観ている)ジャームッシュ『Only lovers Left Alive』を最後まで観てから、YouTubeで友沢こたおが出ていたバイキング小峠さん司会のネット番組を見つけて眺めていると、彼女が『ゆきゆきて、神軍』というアナーキスト奥崎健三のドキュメンタリー映画に影響を受けたというので気になってユーネクストで探して観た。おもしろかったので全部観てしまって、フィルマークスを開いて一応チェックをつける。一応フィルマークスには点数つきで観た映画を記録しているんだけど、ドキュメンタリーとか、ノンフィクション系には付けないことにしているので、これも評価は空欄。フィルマークスの記録によるとゆきゆきて、は今年に入ってから92本目に観た映画らしいですが、だいたい年間100くらいは映画を観ていても印象に残ってるものってかなり少ないです。というか、蓮見重彦が言ったのか岡崎乾二郎が言ったのか忘れたけど、本と違って映画というのは勝手に流れてくれるから、観れてなくても観たことになってしまう、というのは本当にそうだなぁと思います。近頃では音楽でもその実感があり、聴けてないのにとりあえずアルバムを全部再生して耳の穴から音像を頭に認識させただけで聴けたことにしてしまってる、というかこちらの都合のいいように聴いているのは我ながら本当にひどい。

けど昨日久しぶりに駅前のうまいラーメン屋で、ラーメンの味を味わって食っていました。ラーメンというのは多少酔ってる時とか、空腹に任せてがっつくのが美味いという、ある種、雑な享受の方にチューニングされた食い物です。そういうものの味をいちいち解釈しながら食って、Arcaの新譜をただいいなーとか思いながら再生する。少し疲れたがってるのかも知れないです。

ドレッドの人が全員そうなのか、それとも乾燥肌の自分だけなのかわからないけれど、秋になるにつれ空気が乾燥してくるのが少ししんどいです。というのも、ドレッドというのは髪の毛を無理やりに引っ張って乱雑に絡ませて出来上がっているので基本的に頭皮が痛んでいるのに加え、髪がサラサラになってしまうとほどけてしまうという事情でなるべくそういった成分の入っていないシャンプーを使っているので頭皮の保湿には無縁、というわけで、空気の乾燥によって頭が無性に痒くなってしまうという事態が、秋に、人々が気持ちよく過ごせる秋に、頻繁に起こるのです。冬もそうなのですが、湿度が一気に下がる秋の方がよりしんどい。よく初対面の人には、夏は頭に熱がこもりそうですね、と言われるのだけれど、実際にしんどいのは暑いより痒い、であり、重要なのは温度よりも湿度なのです。よく、日本の夏は湿度が高いから、気温がもっと高い砂漠地帯よりも暑く感じる、というようなことを言います。その知識がある程度広まったことにより、多くの人は知識として湿度が感覚にとって大きな比重を持っていることを語れるようにはなっているのですが、ドレッドの人に、秋は頭が乾燥して痒くなりませんか、と言えるほどには湿度の脅威は知れ渡っていません。(そもそもドレッドの頭皮が常に痛んでいて乾燥しがちだということが知れ渡っていないという深刻な事情もあります)

そしてそれ以上に、人々にとって乾燥という状態はあまりにクリーンなイメージによって想起されています。そのことは逆の状態、つまり湿潤、湿りが死や腐敗といったことと深く結びついていることを考えれば自然なことです。川や水辺は水害の名残で死が連想され、ジメジメとした森などの湿地は霊的なものとの相性がよいです。手の届くところでは、キッチンやシャワールームでは水分の拭き残しや生乾きはカビや雑菌の繁殖に繋がります。基本的に湿っているという状態は不快であり、逆説的に乾燥とは無害なものと感じられています。

 

しかし、湿ったところで有機物が腐敗したり、菌が繁殖するというのは、当然だけど微生物の命に水分が必要だからということで、湿りにまとわりつく死のイメージとは小さな生が群なしたものに過ぎない。すなわち真に死(というか無)に近いのは乾燥の方であって、ミイラが肉体を半永久的にその形に留めるように、乾燥とは生死のマクロの運動を殺すものと言えます。乾燥とは時間を停止に導く、いわばタナトスであり、絶えずエロスたる湿潤と闘っているのですが、おれの頭皮はその軋轢を引き裂かんとして痒みという瓦解の契機を生み出します。秋は闘いの季節なのです。もし、亀有に住んだら、中川と荒川に挟まれる形になります。