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最近また一人暮らしへの熱が少しずつ上がってきていて、ふとした時にYouTubeで知らない人のルームツアーやインテリアの動画を見入ってしまってます。YouTubeでウケる部屋というのは、基本的に整然としていて、いわゆる丁寧な暮らし系。生活感の排除が徹底された部屋なので、全体的には共感できないのですが、部分的には、こういう収納はいいなぁとか面白く見ています。それからDultonなんかの商品ページを眺めながら家具のレイアウトをイメージして、賃貸の壁は安っぽくてダメだから壁紙シートを貼ってペンキを塗ろう、それもフレンチウォッシュにしてみようとか妄想する。亀有の駅遠なら1LDKを5万円台で借りられるぞ、というところまではいくものの、現在の諸々の状況が一気に目前に現れて妄想の部屋を一気に蹴散らしていくので、仕方なくChromeからPremiereに画面を切り替えて作業に戻る、ということが頻繁にあります。この、一人暮らし欲、は季節の変わり目ぐらいにいつもやってきて、俺の頭にある程度居座った後いつの間にかどこかへ行ってしまうのですが、今回は無理でも次回ぐらいには実現させようと思っています。というかそういう目標で生活を向上させていこうという意識が多少は無いと、いくら反ネオリベ、反競争を掲げて生きていると言ったって、ある程度の進歩の上に成り立つようなことが何一つ為せないまま死んでしまうということになりかねません。

 

とはいえ、本当にとはいえなのだが、努力するために何かに向き合うことにコンプレックスがあるみたいで、そういった類の機会がいざ目の前に現れると身をかわしてしまうという悪癖は、意識によってコントロールできる域にはとっくにありません。この間も、仕事の足しになればと思って書店にデザインの本を探しに行ったのに、初心者向けのデザインのテキストみたいなものを試しに開いたものの読む気になれず、M/M(Paris)のポスター集とか、ビジュアルデザイン論の本を買ってしまいました。ビジュアルデザイン論の方は、リッカルド・ファルチネリという人が書いた新しいものなんですが、結構面白いです。多分デザイン科の人が1年生でとる講義はこういう内容なんだろうなと思います。SNSで見かけるいっぱい稼いでるフリーランスの人は、職種に限らずみんなてきぱきとしていて、コツコツと何かやっていて、もっと実用的な本を読んでいるらしいです。これは本当に嫌味ではなく、というかこんな嫌味はもはやクリシェみたいなものなのでそんなダサい言い回しを俺はしないという前提を共有したいのですが、そういう実用的なことを売りにしている本を素直に読める人は凄いと思います。自己啓発書だって素直に読める人は凄いし、丁寧な暮らしを実践している人は凄い。そういう素朴で素直な良さを信じている人は、凄いです。これは純粋な価値判断とは少し違うところなので、ニュアンスとして他人と共有できないかも知れないですが、とにかく凄いのです。とにかく違う種類の人間という感じがしてしまいます。

さっきDultonのページを見ていると書きました。おれは、服もそうだけどアメリカ的なものに何か執着があり、それは端的に己のマチズモ的なところに由来していて、非常に嫌ではあるのですが、幼少期からの競争への囚われが転じたものだと解釈して、うまく付き合っていくしかないと考えています。
一昨日、大島渚のマックス・モン・アムールという、人妻がチンパンジーと愛人関係になる映画を観ました。妻のフランス語と夫の英語とチンパンジーの咆哮が交錯する映画です。猟銃を構えたカットで冒頭登場する夫は極めてファルス的でした。おれの中から醜悪なものが本当に取り除かれるとしたら、それは妻がチンパンジーと愛し合うとか、自分がチンパンジーと愛人関係になるとか、それくらいのショックなことが起こったときなのだろうか。それが無理なら、丁寧な暮らしを愛せるというのがせめてもの幸福な人生なのだろうと思うのです。

書こうかなと思っていることがいくつか溜まっていたのにやらなければいけないことが少しずつずっとあるという状態が続いていて、スマホに何となくメモしていたものを傍に置きながらキーボードを叩いています。今もやらなければいけないことはあるし、なんなら明日締め切りの仕事もあってこんなことをしている余裕があるわけではないけれど、そういった「やらねばならないこと」が一日を圧迫していって、「やらなくてもよいこと」ができなくなるというのは非常に下らないのでとりあえずこれを書いたら風呂を沸かして一旦リズムを崩そうと企んでいます。そもそも「やらねばならないこと」と思っていることは思っているにすぎないし、なんなら「やってはいけないこと」というさらに重要なことすら疑っている、疑うべきだとか、そういう認識のレベルで暮らしている。

 

この間友人に知り合いの家庭教師をしてほしいと頼まれて少し勉強を教えてきました。もう8年も前の受験勉強のことは覚えてないからと断ろうとしたのだけれど、詳しく訊いてみると、必要としている指導がまだおれに対処可能なレベルだったのと、家庭的な事情もあるような風だったので2日間で計9時間の授業を引き受けました。生徒は19の男で、キックボクシングをやっていたそうで、少年時代は少しヤンチャをしていたらしい。なるほどこの幼いけど肝が座っているような表情のつくりはそういうことか、と昼休憩の五右衛門でパスタをすすりながら聞いていると、格闘技の話をいろいろしてくれて面白い。キックはかなり喧嘩に近くて顔に膝を入れたりするから鼻がよく折れる、ボクシングは体の動きでリズムを作って闘うから音楽的な格闘、空手とかの武道はまた別で型という単位でリズムがないとかいろいろ。今、書きながらボクシングは時間を連続的に扱っていて空手は切断しているのかと理解しています。音楽に方に話を伸ばすと、それはつまり菊地成孔のいう微分的リズムと積分的リズムの別に似ていて、時間を分割していくのか文字通り積み上げていくのかという違いです。それ以外にも格闘家は体重操作などの事情で身体のことをかなり分析しているという話が面白く、身体への自覚がかなり解像度高くできているのではないかと思い、そういう人が哲学をやったら面白いのではないかと思います。というのも最近永井均の世界の独在論的存在構造を読んでいて、改めて<私>という問題についてふとした時に考えてしまうからです。みんながそうなのかは確かではないですが、この手の本は読み続けていないとぱっと紐を掴み損ねたみたいにわからなくなる時があって、わからないというのは話の筋に追いつけなくなるとかではなく感覚としてわからないということなのですが、そうなるとページを戻る作業が必要になります。逆にわかる時はめちゃくちゃわかるので、そのタイミングで進めてしまう。ある程度難しい本はそういう傾向がありますが、永井均の本は矢鱈とそうで、だからこそ楽しいみたいなところがあります。格闘技をやっている哲学者は入不二基雄がいますね。

 

最近は千葉雅也の対談集も読んでいて、この本は前半に思弁的実在論について、後半を広く現代思想についての対談を載せているのですが、後半の最初のいとうせいこうとの対談がすごく良くて、実は思弁的実在論の方に期待して買ったのに後半のパートばかり読んでいるという状態に入っています。そもそもこの本は思弁的実在論の入門書になるかなと思って買ったのですがそこまで簡単ではなくて、前半はほとんど読めなかったという具合です。この頃の千葉雅也はまだ小説も書いていなくて、話は千葉の初作のうごきすぎてはいけないを緩やかな軸としていとうの諸作を振り返りつつ展開されていくのですが、小説論から意味の接続/切断へとつながっていくような流れの様がおもしろく、いとうせいこうってこんなに自覚的な多動性を持っている人なのかと感心してしまいました。いとうせいこうといえば、おれらの世代では天才ビットくんの人で、それというのは毎週金曜に天才テレビくんの時間にやっているよくわからない胡散臭いテレビで、90年代サブカルがおしゃれでかわいく資本に内包されきる直前の時代に子供たちの脳にサブカルの断末魔として記憶を残した番組です。番組です、と言い切ってしまったが俺はこう理解しています。何しろ天才ビットくんの記憶なんて実はほぼなくて、印象だけがあるといった感じで、今みたら普通に子供番組じゃん、となる可能性は全然あるのですが、中高生になって本当のサブカルと対面した時に感じた再開の感じというか懐かしさは、あの金曜夕方の体験に由来していたと思います。

 

対談の中で個の非意味性の話がでてきて、3年前ぐらいに唇の内側の唾液線が損傷し切除した時のことを思い出した。歯医者に行って手術をしたのですが、その間、唇の部分麻酔をしてその部分を医者が切ったり縫ったりしているのを麻酔が効いていない部分の振動で感じながら、今どこまでがおれだと言えるのだろうかとぼんやり考えていました。手術が終わってしばらくすると、切った部分の感覚が戻らない。糸をとった後になっても下唇の一部を触っても何も感じないような状態になってしまい、それ自体は神経に触れる可能性があるという説明を受けていたし、生活における支障が本当に何もなかったのでなんとも思わなかったのですが、手術中のあの、自分の範囲というものが揺らいだ感覚をうっすらと感じながら生活することになりました。もうすっかり慣れてしまって、その事実を思い出すこともほぼなくなったのですが、そういう曖昧な意味づけの中でなんとか大量の人々が生活しているというのは狂気ともいえる状況で、つまりはそういう自覚を一気にすべての人がしだしたら収集がつかなくなってしまう。

 

そんなことをここ最近は考えていたのだけれど、4日前ぐらいにジャームッシュのミステリー・トレインを観ていたら、割と最近観た台風クラブにも出ていた工藤夕貴が出ているのがわかって嬉しかった。なぜかというと俺は俳優の顔があまり覚えられなくて、結構映画を観てはいるものの日本人も外国人も名前が分かる人はごくわずかなのです。そして彼女の顔を見ているとだんだんと高校生の時に計10回ぐらい話したぐらいの間柄の同級生N田の顔に見えてきて、というか顔がそのN田になって、映画の間その顔は工藤とN田の間を行き来していた。人間の顔は人間そのものだ。というとルッキズム的観点から批判を受けかねないが、人は認識として顔をその人としていて、どんなに頑張って内面で判断していると思っていても、顔というある種の意味からは逃れられない。そんなことを考えていたら工藤夕貴がいろんな有名人の写真とプレスリーの写真を並べて、みんなエルヴィスに似てるわ、と言い出すからとても驚いた。

昨日は義姉が6ヶ月の甥っ子を連れて我が家にやってきました。甥に以前あったのは確か3ヶ月くらい前。久々に見た彼はひとまわり大きくなっていて、抱っこするとずっしりきました。一丁前に人の顔を判別できるようになったみたいで、俺のことを最初は怖がって泣いていたけれど、自分の唇を弾いて「パッ」と音を出してみせていたらそれが気に入ったみたいで、懐いてくれました。大人になってもある程度そうなのだけど、初めて耳にする音というのは赤ん坊にとってはより直感的に魅力的に聴こえるのだと思います。そういう刺激としての経験を蓄積していくことではじめて、刺激の外にある価値を希求できるようになるのでは無いかと思います。なので彼には甘美な刺激だけでなく、ある種苦々しい刺激も経験してほしい。こういうことは親は決して発想しないし、俺がどうこうするというわけでもないのですが。

 

願わくば、ジャック・タチぼくのおじさんみたいな、大人と子供の中間みたいな叔父さんになってみたいです。現実にああいう人がいたら、じわじわと親から距離を取られて隔絶されてしまうのが目に見えていますが、叔父という薄いつながりの大人がたまに現れて、うっすらと世界を乱してしまうということは子供の成長に良い影響を絶対に与えると思ってます。親戚という偶然的に配置された意味上の存在が、周りの良き大人の構築した現実性を一度破壊していくことで、世界の複雑さ、物質的世界と意味的世界の二重性といった人間が生きるということの本質的な理解を促すのではないかと思います。

 

 

レーベルや仕事のことで色々と判然としないのが、自分の中でよくない心持ちを生んでいたので今日は散歩がてら柏の諏訪神社に行きました。諏訪神社は市役所とそれに隣り合う市の中央図書館の向かいにある神社で、去年は図書館に行くついでに毎度立ち寄っていたのでかなりの回数参拝したと思います。手を合わせて特に何かをお願いしたりするわけではないけれど、目を閉じて脱力し、マインドフルネスの要領で自分の身体に対する感覚を強く自覚すると同時に外気や周囲の音の機微を感じます。そうすることで気持ちがすっきりとした感じがするのですが、そういう装置として神社は非常に都合が良いです。神社含めスピリチュアルなものは人間の無意識や偶然、すなわち“どうにもならなさ”みたいなものを“そういうもの”として認めることにその意義があるのだと思います。

 

おれは高校を卒業した年つまり2013年から、たしか一昨年の2019年まで寺社に行って手を合わせるということを意識的にやめていました。その時も色々と考えて生きていて、そのことにも理由があったのだけど、どう考えていたのか、あるいは信じていたのかを正確には思い出すことができません。たしか、人は宗教に対して真剣に取り組むべきであって、習慣としての宗教的行為はむしろ宗教に対する冒涜だとか、そんなようなことを考えていた気がするのですが、愚直な思想の幼さみたいなものがあったということしか確実ではありません。でもその幼ささえ懐かしいような気もします。去年、ふと考えが変わって、人の無意識の領域や偶然性について真剣に向き合うようになり、今まで参拝してこなかった分を取り戻すわけではないですが、頻繁に神社に赴くようになりました。これだけ自然科学が社会の覇権を握る現代においても、人々がいまだにどこか一般の生活の規範から外れた、スピリチュアルなものを信頼し、それとともにあることは人生のリアリティという観点で無視すべきではありません。

 

こうした自分の中での考えの変化は、そのまま近代から現代にかけての思想史の流れと一致しています。最近もニーチェ善悪の彼岸を読んだり、國分功一郎スピノザを援用して自由意志について議論している動画を見たりしましたが、知識として知っていることが人生を通して直感的にわかるようになる瞬間があり、そのような体験こそが偶然的な出会いによって生まれ、蓄積されるのかなと感じます。

 

帰り道はAlicia Walterの I Am Aliciaというアルバムを聴いて歩いたのですが、とてもいい音楽でした。家についてしばらくすると、仕事に関するメールが届いてひとつ考え事がなくなりました。

DAWのバージョンの都合でずっとHigh SierraだったMacをCatalinaにアップデートしています。騙し騙しやってたんですが、仕事の都合でPremiereを最新版にしなくてはいけなくなり、それに伴いついにOSをちょっとだけ新しくしてやらなければならなくなりました。今使ってるStudio one 3は古いバージョンなので、動かなくなったら今度はこっちもアップデートしないといけません。それにかかるお金が地味にしんどくて放置してしまってたんですが、仕事できないとどうしようもないので何とかします。


今、パソコンが使えないのでスマホで文字を打っています。パソコンとスマホにおけるテキスト入力の違いは、第一にキーボードとフリック入力という違い、すなわち手全体で打つということと親指一本で打つということの身体感覚の差です。これはそのまま打ち込むスピード感にも直結するので、思考と発話のラグの問題にも還元されます。第二に画面の大きさの違いがあり、これはテキスト全体のボリューム感の認識の差に直結しています。私たちはまだ、人生で最初に触れる長文というのが物理的オブジェクトすなわち本である時代の人間ですから、テキスト全体のボリューム感は本を基準にして知覚しています。パソコンのワープロソフトも、基本は原稿用紙やコピー用紙に書き込む体験の模倣として設計されているので、(手書きには大きく劣るものの)テキストのボリューム感はある程度認識しながら文字を入力しています。一方スマホでは自分がどれくらい書いたのかわかりません。スマホが1画面に収まる、1ツイート程度の文字数に最適なツールであることが、こうして中文程度のブログを書いてみるとよくわかります。


おそらく上記の要素は文体や書き回し(=言い回し=打ち回し)にも影響します。吃音によって話者の言語が一度脱構築されるように、スマホによる不自由な筆記は自分の育んできた文体を解体し、条坊的に配置された文字列をせせこましく親指でスライドさせることを通して新しい発話を生みます。

東京の方に用事があるときは、だいたいいつも常磐線から千代田線に入って10駅以上地下で揺られていきます。電車内では本を読んでいるかスマホを眺めているのですが、松戸と金町の間では江戸川の景色を見るために顔をあげます。昨日は向かいのシートに座っていた平成風の前髪の男性も同じように外を見ていました。こちら側からは、ひらけた河原の向こうに埼玉県三郷の街並みが見えており、西日が水面と家々をそれぞれ照らしたところを窓枠が切り取っていました。向かいのシートからは葛飾の街並みが見えていたと思います。

 

柏市はベッドダウン、つまり資本主義社会が中産階級の生活の場として役割を与えた土地です。労働と生活を明確に分離させ、後者を保証するために社会が整備して“あげた”場所がベッドタウンであり、それは裏を返すと大きな資本の動きの中に生活も全て収納されているということです。柏駅にはかつて2つ(現在は1つ)の百貨店があり、現在は緩やかにその社会的役割を継ぐ形でショッピングモールが台頭してきています。かつては“ウラカシ”と呼ばれた古着屋群は活気をなくし、本屋だった場所はパチンコ店になりました。

 

市の中心部から少し離れると、突然畑に出くわします。住居と畑と商業施設、そして都心へと直通する鉄道と国道が、緊張感をもってそれぞれ隣り合っているのがこの街のリアリティであり、資本やカネに包摂された街へ向かって行くコンプレックスを象徴しています。

 

おとといファイザーの2回目を打ちました。かなり構えていましたが、ちょっと重めの風邪程度の副反応で済んだようで、熱さましを飲んで寝ていたら終わってしまったみたいです。横になっている間にU-Nextでションベン・ライダーを観ました。その前は台風クラブを観ていました。台風クラブは無論、大雨という降ってくる水の中での狂乱だけど、ションベンの方は流れる水、あるいは停滞している水の中での命の交換。ブルースというトランスの少女が海に体を浸して経血を海水に溶かすシーン、そういう忘れられないようなカットを1つでも見つけ出せれば、2時間映画を観た価値があったなと思えます。

 

もう頭をドレッドにしてから7年くらい経ちますが、すっかり泳ぐということをしなくなってしまいました。プールの匂いが遠い記憶の場所にあります。入れ墨をすると多くの入浴施設の使用が制限されます。こうして、身体をアートの対象として改造していくことは、社会からの疎外を受けることになりますが(ドレッドに関しては心理的に自ら疎外を作り出しているということです。ドレッドでプールに行くことは何も制限されてないので)、それは水中を通して身体と身体が連続的に重なるような場所から始まるのです。また、水中とは身体の不自由さを楽しむ、ある種脱コード化された場所であり、極めて動物的な空間であるといえます。