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書こうかなと思っていることがいくつか溜まっていたのにやらなければいけないことが少しずつずっとあるという状態が続いていて、スマホに何となくメモしていたものを傍に置きながらキーボードを叩いています。今もやらなければいけないことはあるし、なんなら明日締め切りの仕事もあってこんなことをしている余裕があるわけではないけれど、そういった「やらねばならないこと」が一日を圧迫していって、「やらなくてもよいこと」ができなくなるというのは非常に下らないのでとりあえずこれを書いたら風呂を沸かして一旦リズムを崩そうと企んでいます。そもそも「やらねばならないこと」と思っていることは思っているにすぎないし、なんなら「やってはいけないこと」というさらに重要なことすら疑っている、疑うべきだとか、そういう認識のレベルで暮らしている。

 

この間友人に知り合いの家庭教師をしてほしいと頼まれて少し勉強を教えてきました。もう8年も前の受験勉強のことは覚えてないからと断ろうとしたのだけれど、詳しく訊いてみると、必要としている指導がまだおれに対処可能なレベルだったのと、家庭的な事情もあるような風だったので2日間で計9時間の授業を引き受けました。生徒は19の男で、キックボクシングをやっていたそうで、少年時代は少しヤンチャをしていたらしい。なるほどこの幼いけど肝が座っているような表情のつくりはそういうことか、と昼休憩の五右衛門でパスタをすすりながら聞いていると、格闘技の話をいろいろしてくれて面白い。キックはかなり喧嘩に近くて顔に膝を入れたりするから鼻がよく折れる、ボクシングは体の動きでリズムを作って闘うから音楽的な格闘、空手とかの武道はまた別で型という単位でリズムがないとかいろいろ。今、書きながらボクシングは時間を連続的に扱っていて空手は切断しているのかと理解しています。音楽に方に話を伸ばすと、それはつまり菊地成孔のいう微分的リズムと積分的リズムの別に似ていて、時間を分割していくのか文字通り積み上げていくのかという違いです。それ以外にも格闘家は体重操作などの事情で身体のことをかなり分析しているという話が面白く、身体への自覚がかなり解像度高くできているのではないかと思い、そういう人が哲学をやったら面白いのではないかと思います。というのも最近永井均の世界の独在論的存在構造を読んでいて、改めて<私>という問題についてふとした時に考えてしまうからです。みんながそうなのかは確かではないですが、この手の本は読み続けていないとぱっと紐を掴み損ねたみたいにわからなくなる時があって、わからないというのは話の筋に追いつけなくなるとかではなく感覚としてわからないということなのですが、そうなるとページを戻る作業が必要になります。逆にわかる時はめちゃくちゃわかるので、そのタイミングで進めてしまう。ある程度難しい本はそういう傾向がありますが、永井均の本は矢鱈とそうで、だからこそ楽しいみたいなところがあります。格闘技をやっている哲学者は入不二基雄がいますね。

 

最近は千葉雅也の対談集も読んでいて、この本は前半に思弁的実在論について、後半を広く現代思想についての対談を載せているのですが、後半の最初のいとうせいこうとの対談がすごく良くて、実は思弁的実在論の方に期待して買ったのに後半のパートばかり読んでいるという状態に入っています。そもそもこの本は思弁的実在論の入門書になるかなと思って買ったのですがそこまで簡単ではなくて、前半はほとんど読めなかったという具合です。この頃の千葉雅也はまだ小説も書いていなくて、話は千葉の初作のうごきすぎてはいけないを緩やかな軸としていとうの諸作を振り返りつつ展開されていくのですが、小説論から意味の接続/切断へとつながっていくような流れの様がおもしろく、いとうせいこうってこんなに自覚的な多動性を持っている人なのかと感心してしまいました。いとうせいこうといえば、おれらの世代では天才ビットくんの人で、それというのは毎週金曜に天才テレビくんの時間にやっているよくわからない胡散臭いテレビで、90年代サブカルがおしゃれでかわいく資本に内包されきる直前の時代に子供たちの脳にサブカルの断末魔として記憶を残した番組です。番組です、と言い切ってしまったが俺はこう理解しています。何しろ天才ビットくんの記憶なんて実はほぼなくて、印象だけがあるといった感じで、今みたら普通に子供番組じゃん、となる可能性は全然あるのですが、中高生になって本当のサブカルと対面した時に感じた再開の感じというか懐かしさは、あの金曜夕方の体験に由来していたと思います。

 

対談の中で個の非意味性の話がでてきて、3年前ぐらいに唇の内側の唾液線が損傷し切除した時のことを思い出した。歯医者に行って手術をしたのですが、その間、唇の部分麻酔をしてその部分を医者が切ったり縫ったりしているのを麻酔が効いていない部分の振動で感じながら、今どこまでがおれだと言えるのだろうかとぼんやり考えていました。手術が終わってしばらくすると、切った部分の感覚が戻らない。糸をとった後になっても下唇の一部を触っても何も感じないような状態になってしまい、それ自体は神経に触れる可能性があるという説明を受けていたし、生活における支障が本当に何もなかったのでなんとも思わなかったのですが、手術中のあの、自分の範囲というものが揺らいだ感覚をうっすらと感じながら生活することになりました。もうすっかり慣れてしまって、その事実を思い出すこともほぼなくなったのですが、そういう曖昧な意味づけの中でなんとか大量の人々が生活しているというのは狂気ともいえる状況で、つまりはそういう自覚を一気にすべての人がしだしたら収集がつかなくなってしまう。

 

そんなことをここ最近は考えていたのだけれど、4日前ぐらいにジャームッシュのミステリー・トレインを観ていたら、割と最近観た台風クラブにも出ていた工藤夕貴が出ているのがわかって嬉しかった。なぜかというと俺は俳優の顔があまり覚えられなくて、結構映画を観てはいるものの日本人も外国人も名前が分かる人はごくわずかなのです。そして彼女の顔を見ているとだんだんと高校生の時に計10回ぐらい話したぐらいの間柄の同級生N田の顔に見えてきて、というか顔がそのN田になって、映画の間その顔は工藤とN田の間を行き来していた。人間の顔は人間そのものだ。というとルッキズム的観点から批判を受けかねないが、人は認識として顔をその人としていて、どんなに頑張って内面で判断していると思っていても、顔というある種の意味からは逃れられない。そんなことを考えていたら工藤夕貴がいろんな有名人の写真とプレスリーの写真を並べて、みんなエルヴィスに似てるわ、と言い出すからとても驚いた。