mi

レーベルや仕事のことで色々と判然としないのが、自分の中でよくない心持ちを生んでいたので今日は散歩がてら柏の諏訪神社に行きました。諏訪神社は市役所とそれに隣り合う市の中央図書館の向かいにある神社で、去年は図書館に行くついでに毎度立ち寄っていたのでかなりの回数参拝したと思います。手を合わせて特に何かをお願いしたりするわけではないけれど、目を閉じて脱力し、マインドフルネスの要領で自分の身体に対する感覚を強く自覚すると同時に外気や周囲の音の機微を感じます。そうすることで気持ちがすっきりとした感じがするのですが、そういう装置として神社は非常に都合が良いです。神社含めスピリチュアルなものは人間の無意識や偶然、すなわち“どうにもならなさ”みたいなものを“そういうもの”として認めることにその意義があるのだと思います。

 

おれは高校を卒業した年つまり2013年から、たしか一昨年の2019年まで寺社に行って手を合わせるということを意識的にやめていました。その時も色々と考えて生きていて、そのことにも理由があったのだけど、どう考えていたのか、あるいは信じていたのかを正確には思い出すことができません。たしか、人は宗教に対して真剣に取り組むべきであって、習慣としての宗教的行為はむしろ宗教に対する冒涜だとか、そんなようなことを考えていた気がするのですが、愚直な思想の幼さみたいなものがあったということしか確実ではありません。でもその幼ささえ懐かしいような気もします。去年、ふと考えが変わって、人の無意識の領域や偶然性について真剣に向き合うようになり、今まで参拝してこなかった分を取り戻すわけではないですが、頻繁に神社に赴くようになりました。これだけ自然科学が社会の覇権を握る現代においても、人々がいまだにどこか一般の生活の規範から外れた、スピリチュアルなものを信頼し、それとともにあることは人生のリアリティという観点で無視すべきではありません。

 

こうした自分の中での考えの変化は、そのまま近代から現代にかけての思想史の流れと一致しています。最近もニーチェ善悪の彼岸を読んだり、國分功一郎スピノザを援用して自由意志について議論している動画を見たりしましたが、知識として知っていることが人生を通して直感的にわかるようになる瞬間があり、そのような体験こそが偶然的な出会いによって生まれ、蓄積されるのかなと感じます。

 

帰り道はAlicia Walterの I Am Aliciaというアルバムを聴いて歩いたのですが、とてもいい音楽でした。家についてしばらくすると、仕事に関するメールが届いてひとつ考え事がなくなりました。