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いま、新しいプロジェクトで音楽を制作していて、7合目くらいまで来ました。制作はまさに山の形と同じで、ふもとから頂上にかけてどんどんとその断面積が減っていくように、作品に対するアプローチの選択肢が完成につれて減っていきます。それは自分の中の無意識だったり偶然性といった抽象的なものを、具体的に立ち上がらせるという創作行為のプロセスが持つ当然の構造であり、古典的な創作だけでなくそれが前衛的なものであっても基本は変わらないと思います。だからといって制作が終わりに近づくにつれ楽になるかというと無論そうではなく、頂上付近で山が険しくなるにつれて登山者が慎重に歩みを進めるのと同様、作品の完成が近づくにつれ我々はより細部に集中していく必要がある。

いま取り掛かっているプロジェクトは、ビート制作→コンセプトとリリックの作り込み→レコーディング→ミキシングとマスタリング(→映像の制作とその他発信のためのプロデュース)、といったプロセスで作っています。ただ、これらが全て綺麗に進むわけではなく、レコーディングしながらリリックを書き直したり、録った音を使って軽くミックスをしたり、はたまたその結果を受けてビートの構成を変えたりと、プロセスを行ったり来たりしています。つまり、例えば今の段階ではもう、ビートのBPMを半分にしようとか、サンプルは違うのを使おうとか、そういうことは(試みとしては面白いけど素直に考えれば)できないので、マクロな意味では選択肢はかなり減っているのですが、声のテンションを少し落としてみようとか、声の帯域とかぶってる上モノの位置を調整しようとか、ミクロな選択肢が生まれてくるということです。

 

本当は今日はメンバーと作業を進める予定だったのですが、朝からわりと強めの雨が降っているのと、自分の中で調整しなければいけないことがいくつかあったので休みにしました。強めの雨、というのはおれにとって本当に嫌なことです。大概の人は雨が嫌いだと思いますが、多分おれの雨の嫌いさはひとつスケールが違うと思います。家の中にいても常に屋根に雨が当たる音がして、それが脳に響くというか、悪意が包み込んでくるような嫌さがあります。これはトラウマとかそういった類ではなく、ただいやなんです。雨をポジティブに捉えようとする人がいますね。そういう気持ちは理屈としてはわかる(し絶対そうした方が人生は豊かになるのも理解しています)けど、これはそういう小手先の言葉遊びでどうこうなるものではないので、何か大きく人生観が変わるような出来事がない限りこのままだと思います。

 

雨の話で文を結びたくないので、カニエ・ウェストことyeの話をします。カニエと言えばdonda2のリリースの形態が独自の端末(販売価格が訳2万円)限定だったり、そのリリースライブのパフォーマンスでうまくいかなくてマイクぶん投げたりと話題が尽きないですが、ネットフリックスの3本立てのドキュメンタリーは非常に良い出来だったと思います。あれを見て、アルバムを順に聴いて、アマプラで見られるドレイクとのライブを見るととても楽しめると思います。ドキュメンタリーはクーディというディレクターが全て撮影していたのですが、ドキュメンタリー制作という仕事自体のドキュメンタリーとしても奥行きがある作品だと思います。カニエは明らかに自身の事故や病気からの回復をキリストの復活になぞらえているのですが、クーディは聖書としてこのドキュメンタリーを撮っているようにも見えるし、もっと引いた位置にいるようにも見える。この辺を詳細に考えたら面白いと思うけど、一旦これだけ書いて投げ出しておきます。登山に戻ります。