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少し前に、千葉雅也、フェミニスト現代美術家の柴田英里、AV監督の二村ヒトシによる鼎談集の欲望会議が文庫で出て、前々から読んでみたいと思っていたのでこの機に買って一気に読みました。読み終えたのはもう1週間くらい前で、既に次の本、といってもまた千葉雅也の哲学書の方をちゃんと読もうと思って、動きすぎてはいけないを読み始め、それに伴って構造と力を久しぶりに開いたりして、それからラカンの入門書を注文したりと連鎖的に色々広げてしまっているんだけど、欲望会議はかなり過激な本なのでいまだに頻繁にその内容のことを思い出して一々考え事をしてしまう。この鼎談は内容が面白いのはもちろんなんだけど、AV監督である二村が最も社会的な(あるべきとされている)姿勢をとっているのが興味深い。

欲望会議はかなり危ないので、そのまま言説を引き入れて文章を書いたり発言したりすると容易に炎上してしまう(柴田は炎上という現象自体を両者の興奮の装置と捉えていたけど)ので(さすがにこの個人的な雑記が火種になるということはないけど嫌な気持ちになる人が出てくる可能性はある)、文脈の次元ではそこは迂回しつつ、しかし人間の捉え方、とりわけドゥルーズ的な「切断」の先にある個人を目指すべきという(かなり粗い解像度での表現だけど)千葉の根本的姿勢には、自分としては著しく賛同するところがあるので、ツイッターで流れてくるいろいろな人の気持ちには思うことも多い。あまり具体的な話をすると過剰に慎重にならざるをないのでできるだけ少なく済ませたいけど、例えばテレビ番組の企画で過剰に傷ついてしまうという現象。他人の傷を引き受け過ぎているのでは、と心配してしまいます。お笑いが好きな人というのは元来共感の力が強いのだとは思うのですが、画面に表現されていること以上のことを自分の感覚として引き受けてしまっている。歴史的にみても、心酔していた有名人の死を追った自殺というのは数多く起こっていて、そういった最悪のケースと切り離して語ることができないのではないかと思ってしまいます。個人的な感覚としては企画自体に興味はないのだけど、あまりに多くの人が傷つき、そしてエコーチェンバーによってその悲しみや怒りが増大されている現状を見ると、人の心がどんどん繊細になってきているという危機を感じてしまう(こう書くとすごく保守的に見えるかもしれない)。これはインターネットリベラリズム的な動きの中に包摂されていると思います。

 

(主にタレントが)コロナで仕事に穴をあけるときに、何か一言言わなければいけないというのもしんどい。ツイッター以降、何かを言わざるを得ないという暴力が当たり前のことになっていて、謝る、謝らないというナイーブな問題でさえ民主主義的に晒されてしまっている。それは端的に責任の所在を明確にしなければいけないという強迫観念であり、法の内面化による誤った倫理の助長です。

例えば、通り魔に刺されて入院するとなったら、「ご迷惑をおかけしてすみません」と謝る人は少ないと思います。風邪をひいてしまったとなったら謝る人の方が多いでしょうか。では、ガンで入院することになったら?それぞれがどれほど予防できるか(=被害を被った人(あえてすべて被害と捉えますが)にも責任の比重があるか)、どれほど危険な状態なのかというパラメーターがバラバラなので、一律に全てを比較することはかなり乱暴ではあると思うのですが、そういった複雑な基準をなんとなく突破して、コロナになったら謝るべきだという意見がなんとなく一般化してしまっているというのが現状です。タレントとファンとの距離が今ほど近くなかった時代なら、病気や私的な報告は事務所を通して行われていたと思います。つまりその情報をどう取り扱うかということの責任は第三者に委託されていて、被害者はその負担を負わずに済んだ。今は、全てを平等にという極めて正しいリベラルな思想によって、あらゆる負担も平等に振り分けられつつあり、それによって傷つきが加速する人もいる。そして謝ることが悪いのではなく、謝るしか選択肢がない、または謝る/謝らないという評価軸が既に・常に可視化されているというのがただシンプルにやるせない気持ちにさせる。