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最近、事情が重なり自分にしては少し忙しく、頭の中がやることリストで割とみっちり埋まってしまっていたのですが、家族が濃厚接触になった都合でおれも一つ予定を飛ばすことになり、リズムが崩れました。やるべきことはまだ全然あるので余裕が生まれたわけではないのですが、リズムを見失った以上一旦別のグルーブを作る必要があるなと思い、文章を書くこととします。

 

Amazonプライムに入っているとAmazon Podcastというのを聴けることが最近わかり、ドミューンの宮台真司ダースレイダーが出ている回を聴きました。その中で偶然と想像の話が出ていて、おれが以前ここに書いていたようなことをロウ・イエのスプリングフィーバーとフランソワ・オゾンの17歳との関係を絡めてもっと立体的に話していて面白かったです。あと一昨日くらいに黒澤明の生きるを初めて見たんですが、志村喬の顔が本当に良すぎて、鏡の演出とか酔っ払いの喋りとか他にも好きなポイントはたくさんあったけど、それらがどうでもよくなるほどでした。その前はニーチェの馬を見ていたんだけど、また日を跨いで観ていたら視聴期限が切れて最後まで観られなくなってしまった。何年か前にキューブリックスパルタカスでも同じことをしてて、その時はツタヤでレンタルして残りの20分とかを観た気がします。ニーチェの馬でまたそれをやるのかどうかはわかりません。できれば名画座でかかるのを待ちたい。

 

長らく積読にしていた椹木野衣のシミュレーショニズムを読み始めましたが、とても面白いです。おれはアートに関する教養がほぼないので、この本自体も去年か一昨年に荘子itらがシミュレーショニズム再考と題してゲンロンで行ったイベントで知ったくらいですが、アートの勉強を専門にやっていた人を羨ましいと心底思っています。いや実際にはつまらないこともたくさんあるとは思うけど、大学含め学校での勉強はおれにとっては常に何かに圧迫されながらするものだったので、アートという解放の象徴みたいなものが青春時代のすぐ傍にある、そんな人生を選択できた時点でその人は己を誇ることができると言っていいとさえ、真剣に思っています。おれは大学で経営の勉強をしていて、在学中に「これはつまらない学問だ」と言っていたら先輩に「つまらないと言えるほどまだやってない」と言われたのですが、一応学士をとった今なら差し支えないでしょう。ビジネスの勉強は本当につまらないです。稼がなければいけない、という圧迫感が支配しています。大学を選ぶときに文学部に入って哲学をやることも少しは考えたのですが、その時は人生に対してもっと呑気でした。今考えたら全部間違ってたのですが、それは今だから言えるというだけです。30歳で勉強し直して大学院に行きたいです。学部で全く基礎的な勉強をしていないので、放送大学とかで学び直そうかな。ただその時までにある程度生活に余裕があればですし、自分の性格上やりたいことが2年単位で全く違っているので、実際に30になったときにどう考えているかわかりませんが。

 

いま、新しいプロジェクトで音楽を制作していて、7合目くらいまで来ました。制作はまさに山の形と同じで、ふもとから頂上にかけてどんどんとその断面積が減っていくように、作品に対するアプローチの選択肢が完成につれて減っていきます。それは自分の中の無意識だったり偶然性といった抽象的なものを、具体的に立ち上がらせるという創作行為のプロセスが持つ当然の構造であり、古典的な創作だけでなくそれが前衛的なものであっても基本は変わらないと思います。だからといって制作が終わりに近づくにつれ楽になるかというと無論そうではなく、頂上付近で山が険しくなるにつれて登山者が慎重に歩みを進めるのと同様、作品の完成が近づくにつれ我々はより細部に集中していく必要がある。

いま取り掛かっているプロジェクトは、ビート制作→コンセプトとリリックの作り込み→レコーディング→ミキシングとマスタリング(→映像の制作とその他発信のためのプロデュース)、といったプロセスで作っています。ただ、これらが全て綺麗に進むわけではなく、レコーディングしながらリリックを書き直したり、録った音を使って軽くミックスをしたり、はたまたその結果を受けてビートの構成を変えたりと、プロセスを行ったり来たりしています。つまり、例えば今の段階ではもう、ビートのBPMを半分にしようとか、サンプルは違うのを使おうとか、そういうことは(試みとしては面白いけど素直に考えれば)できないので、マクロな意味では選択肢はかなり減っているのですが、声のテンションを少し落としてみようとか、声の帯域とかぶってる上モノの位置を調整しようとか、ミクロな選択肢が生まれてくるということです。

 

本当は今日はメンバーと作業を進める予定だったのですが、朝からわりと強めの雨が降っているのと、自分の中で調整しなければいけないことがいくつかあったので休みにしました。強めの雨、というのはおれにとって本当に嫌なことです。大概の人は雨が嫌いだと思いますが、多分おれの雨の嫌いさはひとつスケールが違うと思います。家の中にいても常に屋根に雨が当たる音がして、それが脳に響くというか、悪意が包み込んでくるような嫌さがあります。これはトラウマとかそういった類ではなく、ただいやなんです。雨をポジティブに捉えようとする人がいますね。そういう気持ちは理屈としてはわかる(し絶対そうした方が人生は豊かになるのも理解しています)けど、これはそういう小手先の言葉遊びでどうこうなるものではないので、何か大きく人生観が変わるような出来事がない限りこのままだと思います。

 

雨の話で文を結びたくないので、カニエ・ウェストことyeの話をします。カニエと言えばdonda2のリリースの形態が独自の端末(販売価格が訳2万円)限定だったり、そのリリースライブのパフォーマンスでうまくいかなくてマイクぶん投げたりと話題が尽きないですが、ネットフリックスの3本立てのドキュメンタリーは非常に良い出来だったと思います。あれを見て、アルバムを順に聴いて、アマプラで見られるドレイクとのライブを見るととても楽しめると思います。ドキュメンタリーはクーディというディレクターが全て撮影していたのですが、ドキュメンタリー制作という仕事自体のドキュメンタリーとしても奥行きがある作品だと思います。カニエは明らかに自身の事故や病気からの回復をキリストの復活になぞらえているのですが、クーディは聖書としてこのドキュメンタリーを撮っているようにも見えるし、もっと引いた位置にいるようにも見える。この辺を詳細に考えたら面白いと思うけど、一旦これだけ書いて投げ出しておきます。登山に戻ります。

2022年2月24日。ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始しました。ツイッターを開くと撮影者の上空をミサイルが飛ぶ映像がリアルタイムで流れてきます。と同時に、普段と変わらないいつも通りのツイートも流れてきます。SNSで何か言う必要などないのはわかっていて、何も言わないからと言って無関心だとか、そういうことではないのは重々承知しているのだけれど、あまりにギャップがありすぎる。みんな各々の生活をやっているのでしょう。おれは自分がかなり強い(というか図太い)人間だと思っていましたが、むしろ弱いということがわかりました。そんなふうに自分の生活を生きられない。ツイッターで「平和を祈ります」とか「ロシアの侵略行為を非難します」とか言うことは簡単だけど、それで何か変わることはない。だから自分の生活を生きる他ないんです。それがわかっていながら、捌け口のない悲しみと無力感を持て余している。

2月に入ってから一度もブログを書いていなかったみたいです。このブログは特に更新の告知をすることはなく、偶然リンクを踏んだりなんとなく気になってのぞいたりとかした時に生じるコミュニケーション、言うなれば置き手紙的なものを目指しているのですが(これは現代のネット上で覇権的な既読的責任からの開放への志向を意味しています)、今さっきアクセス解析を見てみたらコンスタントにこのブログを訪れている人が数名ですがいるとわかり、信条に反して必要に駆られ文字をタイプしています。だからと言って人が興味を持ちそうな話題を持ち出すとか、読む人の感情を先読みするような書き回しをするような、エンターテインするための文章を書こうという気は全く無く、今まで通り、少し聞きかじった程度の人文学や精神分析の用語を全く注釈をつけずに私的な解釈の上に並べ、なんとか一個の実存の記録としてのブログ(あるいは日記)として成立させるような試みを続けるつもりです。これはペルソナのいない書き物なので、読者のリテラシーに任せるといったような高飛車な態度ではなく、むしろその逆で大いに誤読してもらうことで、初歩的なレベルでの文章の可能性を活用していきたい。故にこの文章は非常に私的かつ公的であるという矛盾を目的の一つとして内在しています。

 

このようにブログでブログについて語るというのは「自分語り」的なウザさを少なくとも孕んでおり、その自覚すらもここで書くと言うのは「わかってやってますけど」的なメタ認識の誇示として薄寒さを人に与えるものです。それでもなぜそのようなことを書いているのかというと、一つは自分の中でなぜブログを書いているのかということがわからなくなってしまったからです。最初の記事でこのブログが始まった理由については確かに書いたのですが、今それを読んでも全く自分のことのようには感じない。おそらくただなんとなく「書こう」と思ったから書いて、混じり合った感情の結果としての理由をエンコードして固定し、出力することで文章との共犯関係を結び、自分で自分を興奮させていたんだと思います。つまりおれという人間(あるいは人間一般がそうなのではないかと疑っていますが)は行為の動機を確認しながら同時に作り上げるという(見方によっては悪)癖があるのです。冒頭の文章は根拠を語ったものではないですが、ブログを自分から引き剥がすことで客体化しているという点では同じ動機に基づく工作です。さらにこの文章、今まさに書いているこの文章でさえその論理に回収されていくという、理性批判のめちゃめちゃしょうもないバージョンが開始されてしまうので、この勘ぐりは一旦停止します。

 

ただ別に書きたくなくなったとかではないのだと思います。そもそも勝手に書いてるのだからやめたくなったらやめれば良い。こんなことを書き始めてしまった理由として思い当たる節としては、これを書いていなかった間に音楽をずっと作っていたというのがあります。いざ文章を書こうと思って画面に向かった時に「書く」という行為が持つ自己開示のナルシシズム的側面と、自己を客体化していく過程で生じるマゾヒズム的側面がまざまざと立ちあらわれ、音楽を作るという行為とのギャップの大きさに困惑を覚えたのかもしれません。つくづく「書く」とは倒錯的行為だと実感します。

 

 

書こうと思っていたことを思い出しました。

 

3週間くらい前に、母が台所で「良い塩を買った」と言って良い塩を見せてくれました。今思うとそんなことを言う必要はないのですが、「目隠して舐めたら絶対わからないよ」と言ってしまい、それに母が応じてしまったので、ブラインドテストをすることになりました。良い塩は、粗塩というんでしょうか、粒が大きくて舌触りで通常の食塩との違いがわかってしまうので、わざわざすりつぶして、母に交互に舐めてもらいました。おれが「どちらが良い塩?」と聞くと、少し迷って母は普通の塩を選びました。

 

好きな食べ物は?という質問がありますが、あれってちゃんと答えようとするとかなり難しいです。ソムリエみたいに特殊な訓練を受けていない限り人間の味覚なんてかなり不正確で、自分の普遍的な趣向に完全にあった食べ物(仮にそういうものがあるとして、という留保が先の質問の背後にはあります)が何なのかを判断することなど不可能に近いと思います。なので自分含め一般的には「これが自分の好きな食べ物」というのを一応決めておくことで、そのような質問に対処しているのだと思いますし、幼少期から好きな〇〇は?という質問に答えるという訓練によって、自分はこれが好きなのだという建前を作る社会的なスキルを我々は共有しています。もちろん本当にその食べ物が好きだと信じることは可能ですが、それはその食べ物が持つイメージや個人の思い出による部分もかなり大きく、それ含めその食べ物だと言ってしまうこともできますが、「好きな食べものは?」という質問の一義的な意味(かつ、イコールで結んでも多くの人は異論を唱えないであろう文言)である「あなたの味覚の趣向を教えて」への答えとしては厳密には不正確です。おれは好きな食べ物を一応寿司ということにしています。寿司は料理名として宣言してよい唯一のアラカルトの集合です。もちろん寿司の基本的なパッケージ(酢飯と魚の切り身)が概ね自分の趣向に合致しているというのは否定できないですが、寿司という選択肢は自分の趣向を固定化して宣言してしまうことの罪悪感を薄めてくれるという点で件の質問への応答として信頼しています。

 

良い塩の味がいつもの塩と違いないことを母に身をもって知ってもらった後、おれは軽い罪悪感に見舞われていました。たかだか数千円かそこらで、家事の一部が少しでもいい気分になるのであれば、そのままタネを明かさないほうがよかったのではないか?良い塩といえど塩なので、そんなに頻繁に購入するものでもありませんし、年間の出費で考えればたかが知れています。良い塩の販売業者だって真っ当に高級な食材を売っていて、不当に儲けているというわけでもなさそうですから、搾取だとかそういった方面でも非難されるいわれはないでしょう。話を拡張すると、啓蒙とはこうした個別の事故を乗り越えていくことを前提として、全体としての幸福のレベルを引き上げることを志向しているのだと思いますが、そうした主知主義を盲(蒙)目的に信じるのが一つのイデオロギーにすぎないと今でははっきりいえます。

 

 

なんだか全体的に、音楽を作っていた時の手癖というか流れを引きずったまま文章を書いてしまったように思います。全体のダイナミズムと情動的な筆致は意図したものではありません。音楽を作る方が楽で楽しいですが、文章を書くこともまた倒錯的な快楽に満ちています。

少し前に、千葉雅也、フェミニスト現代美術家の柴田英里、AV監督の二村ヒトシによる鼎談集の欲望会議が文庫で出て、前々から読んでみたいと思っていたのでこの機に買って一気に読みました。読み終えたのはもう1週間くらい前で、既に次の本、といってもまた千葉雅也の哲学書の方をちゃんと読もうと思って、動きすぎてはいけないを読み始め、それに伴って構造と力を久しぶりに開いたりして、それからラカンの入門書を注文したりと連鎖的に色々広げてしまっているんだけど、欲望会議はかなり過激な本なのでいまだに頻繁にその内容のことを思い出して一々考え事をしてしまう。この鼎談は内容が面白いのはもちろんなんだけど、AV監督である二村が最も社会的な(あるべきとされている)姿勢をとっているのが興味深い。

欲望会議はかなり危ないので、そのまま言説を引き入れて文章を書いたり発言したりすると容易に炎上してしまう(柴田は炎上という現象自体を両者の興奮の装置と捉えていたけど)ので(さすがにこの個人的な雑記が火種になるということはないけど嫌な気持ちになる人が出てくる可能性はある)、文脈の次元ではそこは迂回しつつ、しかし人間の捉え方、とりわけドゥルーズ的な「切断」の先にある個人を目指すべきという(かなり粗い解像度での表現だけど)千葉の根本的姿勢には、自分としては著しく賛同するところがあるので、ツイッターで流れてくるいろいろな人の気持ちには思うことも多い。あまり具体的な話をすると過剰に慎重にならざるをないのでできるだけ少なく済ませたいけど、例えばテレビ番組の企画で過剰に傷ついてしまうという現象。他人の傷を引き受け過ぎているのでは、と心配してしまいます。お笑いが好きな人というのは元来共感の力が強いのだとは思うのですが、画面に表現されていること以上のことを自分の感覚として引き受けてしまっている。歴史的にみても、心酔していた有名人の死を追った自殺というのは数多く起こっていて、そういった最悪のケースと切り離して語ることができないのではないかと思ってしまいます。個人的な感覚としては企画自体に興味はないのだけど、あまりに多くの人が傷つき、そしてエコーチェンバーによってその悲しみや怒りが増大されている現状を見ると、人の心がどんどん繊細になってきているという危機を感じてしまう(こう書くとすごく保守的に見えるかもしれない)。これはインターネットリベラリズム的な動きの中に包摂されていると思います。

 

(主にタレントが)コロナで仕事に穴をあけるときに、何か一言言わなければいけないというのもしんどい。ツイッター以降、何かを言わざるを得ないという暴力が当たり前のことになっていて、謝る、謝らないというナイーブな問題でさえ民主主義的に晒されてしまっている。それは端的に責任の所在を明確にしなければいけないという強迫観念であり、法の内面化による誤った倫理の助長です。

例えば、通り魔に刺されて入院するとなったら、「ご迷惑をおかけしてすみません」と謝る人は少ないと思います。風邪をひいてしまったとなったら謝る人の方が多いでしょうか。では、ガンで入院することになったら?それぞれがどれほど予防できるか(=被害を被った人(あえてすべて被害と捉えますが)にも責任の比重があるか)、どれほど危険な状態なのかというパラメーターがバラバラなので、一律に全てを比較することはかなり乱暴ではあると思うのですが、そういった複雑な基準をなんとなく突破して、コロナになったら謝るべきだという意見がなんとなく一般化してしまっているというのが現状です。タレントとファンとの距離が今ほど近くなかった時代なら、病気や私的な報告は事務所を通して行われていたと思います。つまりその情報をどう取り扱うかということの責任は第三者に委託されていて、被害者はその負担を負わずに済んだ。今は、全てを平等にという極めて正しいリベラルな思想によって、あらゆる負担も平等に振り分けられつつあり、それによって傷つきが加速する人もいる。そして謝ることが悪いのではなく、謝るしか選択肢がない、または謝る/謝らないという評価軸が既に・常に可視化されているというのがただシンプルにやるせない気持ちにさせる。

この間、濱口竜介の偶然と想像を観て、それがとても好きでした。偶然と想像は3編の短編からなるアンソロジーなんですが、その1つ目の会話劇が本当に、純然たるエロティシズムを体現していて、ベッドシーンが一つもないのにずっとセックスを映しているような、そういった長回しが臆面もなくそこにありました。自我と他我が行為によってドライブされ、意思の所在が不確かになる、すなわち性(=生)とは中動態であり、あらゆる二分律を拒否しているのだというテーゼに現実が徐々に解されていくようなシーンを観ました。

 

Earl Sweatshirtの新譜が恐ろしく良くできていて、ここんところ、出かけるたびにイヤホンから流していました。昨日、電車に乗っている時に、ふとその関連でTyler, the Creatorの去年出たCall Me If 〜を聴いていたら、2曲目の後半の展開がすごすぎて立てなくなるかと思った。おまけに2から3曲目への接続の瞬間も白眉。このアルバムが出た時は結構よく聴いていた気がするけど、この部分にそんなに打ちひしがれた覚えはなかったです。展開がすごいというのは、曲が最後に向かうにつれて興奮を高めていくような素材の配置が完璧に行われているということなんだけど、それはつまり反hiphop的でもあるということで、けどとにかく洗練されている。こうしたオーガズムともいえる快楽は、ひたすら1ループで最後までクールを突き通すような順hiphopにはありえず、自分ではどうしようもないカタルシスの先にあるもののようです。Tylerで果てて、Earlをまた聴く。